Interview 私としごと

いつ死ぬかわからないから、今を全力で生きる

日本放送協会(NHK)
倉崎 憲(制作局 第2制作センター ドラマ番組部 ディレクター)

インドのバラナシで、遺体が焼かれていくさまを見て、自分もいつかは死ぬんだと思い「映画監督になろう」と強く心に決めた倉崎憲さん。そんな彼は、大学生のときに学生団体を創設してラオスに小学校を建てたかと思えば、世界一周も成し遂げる。そして、制作に携わった本が映画化されるなど、常に彼の行動力には目を見張る。新卒でNHKに入局し、現在3年目。これまでたどって来た道のりを追いながら、常にハングリーかつアグレッシブな、彼の本質に迫る。

プロフィール

倉崎 憲

1987年生まれ。国際団体SIVIO創設者。同志社大学法学部を卒業後、NHKに入局。制作局ドラマ番組部に配属され、大河ドラマ「平清盛」、テレビ60年記念ドラマ「メイドインジャパン」の助監督を経て、現在土曜ドラマを担当。

インタビュー・テキスト:小野田 弥恵 撮影:すがわらよしみ(2013/4/9)

10代の頃から渇望感が凄かった

―NHKに入局してすぐに「平清盛」の助監督に抜擢されたとのことですが、そもそも助監督はどんな仕事をするのですか?

倉崎:一言で言えば「何でも屋」です。初めての仕事が、清盛の幼少期シーンで登場する犬を探すことでした。まず台本を読み込んで、監督がイメージする犬を見つけるために動物プロダクションに行って、用意してもらった犬たちと戯れながら、思い通りに動いてくれるかどうかを見極めるんです。つまり助監督の仕事は、監督がもつイメージを具体的に作り出すことです。

—入社して1年目から助監督と聞くと、かなり期待をされているように感じますが?

倉崎 憲

倉崎:大河ドラマって全50回という長丁場だから監督だけで4人くらいいるんです。それで、助監督は10人くらい。確かに僕は最年少だったけれど、新人の助監督は毎年必ずいるので、特別なことではないです。新人社員のほとんどはまず地方局勤務から始まって、現地のドキュメンタリーやスポーツ中継、のど自慢など何でも制作するんです。中には自分の手掛けたドキュメンタリーが好評で全国放送が決まった同期が何人もいて。そんな話を聞いてしまうと少し焦る気持ちもありますよ。

―同じNHKでも勤務地によって仕事の関わり方が違うんですね。

倉崎:でも、最初から本局のドラマ部にいられるという点では、良い経験をさせてもらってます。例えば、大河ドラマってスタッフだけで100人近くいるから、現場は常に混沌として怒声が行き交っていて、まるで戦場のよう。まわりは職人だらけで、細部まで全く妥協がない。そんな現場の中にいると、「油断したら食われる」って、危機感を覚えます。スタッフ全員のワンカットに全てをかける熱気が、ほんと凄まじくて。

―必死で現場にコミットしてきた様子が伝わってきます。倉崎さんは、子どものころからそんな積極的なタイプだったんですか?

倉崎:子どものころは好奇心旺盛で、女の子が大好きなだけのだめなヤツでしたね(笑)。そしてとにかく、整理整頓ができないような。興味のあることに手を出しては、やめて、その繰り返しです。
中・高のとき、期末テストってあったじゃないですか。一生懸命勉強して、終わると解放感があって、おおげさだけど僕はそのとき生きている実感があったんです。でも、高校2年の時くらいから、テストが終わったとたんに憂鬱になってしまって。なんというか、物足りなくて切ないというか。

―切ない?

倉崎:切ないんです。ああ、そう、僕の人生って、ずっと切ない感じなんですよ(笑)。常に満たされない感じがつきまとっていて。今でも、ロケの後に家に帰る時間が嫌いなんです。現場はエキサイティングだし、自分も必死で、熱中してる。でも、そこから解き放たれると心にぽっかり穴があいた感じがするというか。

―エネルギーをそそぐ対象がないと、渇望感でいっぱいになってしまうと。

倉崎:それをあるプロデューサーに相談したら、「モノを作る上で、虚しさや切なさは大事な感性。それが、将来演出をするうえでいい味になるかもしれない」って言われました。だから今は、「あぁ、またこの時期がきたんだ」って受け止めるようにしています。でも、10代のときは今よりももっと渇望感に振り回されていましたね。

ラオスに小学校を建てる

―多感な少年時代だったんでしょうね。

倉崎:大学に入ってから、4つのサークルをかけもちしていたんですけど、だんだんつまらなくなって、また凄い虚無感に襲われたんです。「一体、自分は何をやっているんだろう?」って。それで、もう思い切って海外に行こうと思って、サッカーボールを持って、ラオスに旅立ったんです。それが初めての海外への旅でした。

―エネルギーを注ぐ対象を、どこかで探していたという感じですか?

倉崎:はじめはそんな大それたことは考えてなくて、とにかくサッカーと子どもが好きだったので、ボールを持ってうろついていたんです。すると子どもに声をかけられて、遊んでいるうちに、気がついたら100人くらいの子どもが集まっていて、僕もみんなもがむしゃらにひとつのボールを追っかけていた。このときに、それまでの憂鬱がふわっとなくなったんですよ。本当に。それほど、解き放たれた瞬間だったんです。ほんと心からハッピーで、「自分が求めていたのは、この生きてる感覚だ!」って。

―何かが、解き放たれたんでしょうね。

倉崎 憲

倉崎:人生の中でベスト5に入るような瞬間でしたね。そこでたまたま、現地で支援活動をしているNPO法人の人と出会って、通訳をつけて村民と話す機会をいただいて。話を聞いたお母さんたちは「学校がほしい。せめて子どもたちに初等教育だけでも受けさせたい」って口を揃えて言っていて。難しいこと抜きにして、小学校ってやっぱり大切な場所なんだと思いました。それで僕はもう、帰りの飛行機のなかで「あそこに、学校をつくる!」と熱くなっちゃって。

―行動が早い(笑)。そのことがきっかけで、学生団体を立ち上げたと伺いました。

倉崎:あのときは、毎日燃えたぎってましたね。それで設備の充実度などにもよりますが、150万円もあれば、小学校を建てることができると知ったんです。すぐに友人らに声をかけ、ライブハウスやクラブなどで、チャリティーイベントを開いて資金を集めて。無我夢中に急ピッチで動いてましたね。ただ、現地に学校を作る方法がわからなかったので、協力してくれるNPOに相談をして、現地調査を何度もして。それで資金も集まって、念願の学校ができ、当時のメンバーで開校式に立ち会ったんです。

―完成した小学校を見たときはどうでした?

倉崎:学校ができるまでに、周囲から批判された時もあったし、自分自身もこの活動が果たして正しいのかわからない時もあったんです。でも、やるしかないと思って、やりきった。そして出来上がった教室で目を輝かせながら勉強をしている子供たちの姿を見たときに、「ああ、いま目の前にある光景が全てなんだ」って。今まで葛藤しながらやってきた自分たちの活動は、全てこの子どもたち、村人たち、そしてメンバーたちの笑顔に繋がっていたんだって思いましたね。

―なるほど。でも、大学生が小学校を建てるって、凄いことですね。

倉崎:ただ、ハッピーだった一方で、虚しさも感じていて。たまたま僕らはラオスにある小さな村に学校を建てたけれど、他にも学校を必要としている村は多くあって。もっと言えば、ラオスじゃなくても他の国でもいろんな社会的な問題がある。あまりのキリのなさに、世界なんて変えられない、みたいな感覚に陥っちゃって。だから、まずは自分たちの活動なり想いなりを伝えるしかないと。

―まずは行動してみることだと。

倉崎:そんな時に、僕らと同じような支援活動をしていた関東の医学生から、「今、カンボジアでの活動をまとめた本を作っているんだけど、憲くんが撮った写真を掲載させてほしい」と声をかけられて。それで話したら、僕ら同様に葛藤まみれで、ありのままにさらけ出して活動をしていることに、意気投合したんです。元々、僕が旅先で撮っていた写真でこの本に協力しました。

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