第2回:私は、デパートが大好きです。
- 2014/07/08
- SERIES
今回は、寺坂さんがデパートを愛するようになったストーリーをご紹介します。
Profile
寺坂 直毅
1980年宮崎生まれ。 放送作家として、テレビ、ラジオ番組の構成を担当。 家から徒歩圏内にデパートが何軒も乱立する環境で幼少期を過ごし、 魅力に憑りつかれたために日本全国のデパートを行脚した 「胸騒ぎのデパート」(東京書籍)を刊行。 紅白歌合戦、黒柳徹子研究などの趣味を持つ。
私はデパートを愛しています。
私は今、長野県の南部に位置する飯田市の、駅前のビジネスホテルにいます。
ここにいるのも、ある目的があるからです。ホテルに置かれていた飯田市のパンフレットを見ますと、この町は蕎麦が美味しいらしいです。五平餅、ウナギ、馬刺しも名物なんだそうです。しかし、胃袋を満たすために来たのではありません。
なにを隠そう、今回の目的は「デパートを見たいから」なのです。同意していただけますか? なかなかこの趣味、理解してくれないんですよね。だから友達少ないんですよ。となると、前回の暗い過去の話に戻ってしまうんで……、今回は明るくいきます。
私はデパートを愛しています。きっかけは幼稚園の時です。
前回もお話しましたが、私の実家は宮崎県宮崎市。中心部で毛糸店&ブティック「愛編む寺坂」を営む両親のもとで生まれて育ちました。その実家の3軒お隣さんがデパートでした。幼稚園が終わったら、他の子供たちは公園で遊ぶのでしょうが、私は必ずデパートに行っていました。
毛糸店の店員さんと行ったり、お客さんに連れて行ってもらったり。エスカレーターやエレベーターは子供から見て、未来都市にタイムスリップしているような魅力がありました。それほど、デパートには未来的な魅力がありました。
そして、そのデパートの趣味がやがて仕事になるとは、この頃には思いもしませんでした。
エレベーターガールにフラれた小学2年生の春
エレベーターガールの優しい笑顔も楽しみの一つでした。
小学生になってもデパート愛は続き、学校でテストの点数が低くても、ドッジボールで集中的にボールを当てられても、音楽の授業のリコーダーを隠されても、数人分のランドセルを持たされても、放課後デパートに行けば気分は天国でした。
しかし、小学2年生の春。そのデパートが、半期に一度のバーゲンの日。
あまりにデパートが好きすぎて、売り場に行かず、エレベーターを何往復も乗るという、今考えてもよく意味のわからない遊びをしていました。
そこで、エレベーターガールのYさんに、ある言葉を言われました。
「今日は忙しいから帰って。」
この衝撃、20年以上たった今でも忘れられません……。愛していたデパートにふられたのです。失恋です。
その日から、そのデパートには行かなくなりました。どうしても買い物をしたい時は、正面玄関から覗いて、Yさんが案内所にいるかどうかを確認してから中に入りました。私はデパートを完全に嫌いになったのです。
泣いて抵抗した、広島デパートめぐり
そして小学2年生の夏。家族旅行で、広島へ行く事になりました。
メインは宮島や平和記念公園だったのですが、宮崎のデパートは訪れる事が出来なくなってしまったので、「他県のデパートなら、また行きたい!」という思いから、広島駅に着いてすぐに、デパートを4軒、はしごする事になったのです。
というのも、広島で宿泊するホテルが、中心部の「紙屋町」という場所。広島駅から電車に乗り、紙屋町に行く道沿い、横一列にデパートが4軒建っているので、地図が無くても、土地勘が無くても、簡単にデパートを訪れる事が出来ます。「お好み村に行ってお好み焼きを食べたい!」という5歳上の姉の意見を無視し(泣いて抵抗し)、「広島デパートめぐり」をする事になりました。姉は不機嫌でしたが、その20年後に晴れて結婚した亭主は広島出身の人なので、今はしょっちゅうお好み焼きは食べているでしょう。そう思えば時効です。許してください。
話は戻しますが、その「広島デパートめぐり」。これがめちゃくちゃ楽しかったのです。三越広島店、天満屋広島八丁堀店(現在は閉店)、福屋八丁堀本店、そごう広島店、どれも売場面積、歴史、品格ともに大規模なデパートです。
デパートが与えてくれた安堵感
三越はレストランでお子様ランチを食べて、天満屋ではシースルーエレベーターに乗り、福屋ではおもちゃを買ってもらいました。そして最後はそごうです。そごうには屋上に遊園地があると知り、私は屋上のエスカレーターを降り、全速力で屋上遊園地の目玉「モノレール」に向かって走ったのです。
しかし、そこで興奮で前も見ず、我を忘れて走ってしまい、事故が起こりました。そう、他の子供と思い切りぶつかってしまい、感動は激痛にかわったのです。
「わ~~~~~!!うぁ、い、いたっ、痛い、ぎゃ~~~~っっっ!!!!!」
前歯から血がドバドバと出てきました。相手の子供は無事で何よりでしたが、私は血に染まったのです。「なんとかせねば!」と心配する家族。そんな時、そごうの店員さんが声をかけてくれました。「大丈夫? 医務室に行きましょう!」。
すぐに店内にある医務室に案内され、応急処置をしてくださり、すぐに歯科に紹介状を書いてくださり、事なきを得ました。泣いて泣いて、涙が枯れるほど泣いてわめいて、処置によって痛みがなくなった時の安心感は未だに忘れる事ができません。「デパートって、なんて親切な場所なんだろう。」
その時、私はデパートを本格的に好きになりました。
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- 「デパートバカ」が仕事になる!
「デパートバカ」が仕事になる!
「デパートは真心のある場所。もっといろんなデパートを見てみたい。」
その夏から、学校の休みのたび、「全国デパートめぐり」をする事になりました。
小学校低学年までは父親と同行する旅。1泊2日で、1日目はその場所の観光。2日目はデパートめぐり(10軒ほど)。時間を決めて、父はデパートのベンチで待っていてもらいました。今考えると申し訳ないです。
そして高学年になると、一人で旅するようになりました。
デパートに行くと、外観、内装、エレベーター、エスカレーター、売場、制服、駐車場、すべてを見ます。見た目は色がついていない巨大なビル。しかし中に入ればキラキラと輝いた色で、「街」になっているギャップが最大の魅力です。売場の編成やディスプレイは、それぞれのデパートが、少しでもお客さんの心を惹きつけようという工夫、アイディアの賜物。建物もz~中期のものが多く、レトロを感じる箇所もあり、古い建物の壁には、アンモナイトの化石が眠っているところもあります。博物館のような楽しみ方もできるのです。
デパートに行き続け、25歳の時には、日本全国250店舗を制覇していました。
そして、そのデパートめぐりがやがて仕事になるとは、夢中でデパートめぐりをしていた頃には思いもしませんでした。
私は25歳頃から、ブログをやっていました。「デパートと紅白バカの生活」というブログです(今は更新していません)。デパートめぐりの様子を掲載していました。そのブログを、東京書籍の編集の方が見てくださっていました。
編集のOさんは、昭和のノスタルジーの視点でのデパート本を作ろうと考えていて、誰か書ける人間がいないかと検索していた時、偶然ブログを発見してくださったのです。それまで、デパートに関する本が無いわけではありませんが、ほとんどが経済的な視点で見たものと、東京の有名デパートに関するもの。デパートは東京だけではない。しかし私は、地方のデパートこそ個性があり、デパートの原点があると常に考えていました。
デパートが支える、日本社会
シャッター商店街がふえている日本の地方都市。なんとか町の中心地を活性化しようと頑張る時、必ず強力なサポーターとなっているのが、地方のデパートです。そして、それらには何かしらの昭和ノスタルジーがあります。大食堂、エレベーターガール、地下のまわるお菓子……。地方から上京した人が故郷を思う時に描く絵は、幼い時に家族で訪れたデパートが多いはずなのです。
地下食品売り場の、メリーゴーランドの形をしたお菓子売り場に胸をときめかせた事、迷子になって不安だけど、どこか冒険した気分になれた事、レストランで食べたお子様ランチで、持ち帰って1か月ぐらい部屋に飾った旗……。
デパートは子供の頃の懐かしい思い出を甦らせてくれる、心のアルバムのようなものなのです。
そんな理由で、2009年に日本列島のデパートガイド本『胸騒ぎのデパート』を半年がかりで執筆しました。その取材の旅は、これまで親切に接してくれたデパートに対するお礼を兼ねていました。
毎回取材で「中学の時訪れました、その時……」「あれ、あの店、なくなってますね」などと、広報担当の方が絶対知りえない情報を聞くのも、なんともいじわるですが楽しかったです。
取材した方々とは今でも付き合いがあり、私の財産となっています。
その後、2011年には日本百貨店協会の会報誌のコラムも連載しましたが、この連載では、東日本大震災が起こったその時、東北、関東など被害の多かった地域のデパートはどのような対応をしたかを取材しました。
岩手、宮城、福島、茨城の8店舗。それぞれが、復興に向けて動く様子を取材。これに関しては、この先もずっと見続けていきたいと思っています。
さて、私が今いる長野県飯田市。
駅前にレトロな商業施設がありまして……名古屋出張からの帰り、寄り道として伺っています。
どんな店内になっているのか、期待でまったく眠れません。