第1回:「一番不幸」だった少年時代。

寺坂 直毅(放送作家)

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放送作家として知られる寺坂直毅さんは、デパート、紅白歌合戦、徹子の部屋など、とてもピンポイントなモノやコトに膨大な知識を持つ、その分野の“博士”であり、いわゆる“マニア”だ。しかしそんな寺坂さんの幼少期は、友達も全くいない日々だったという。不登校児でもあった寺坂さんは、どのようにして放送作家として活躍するまでに至ったのだろうか?
    • Profile

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      寺坂 直毅

      1980年宮崎生まれ。 放送作家として、テレビ、ラジオ番組の構成を担当。 家から徒歩圏内にデパートが何軒も乱立する環境で幼少期を過ごし、 魅力に憑りつかれたために日本全国のデパートを行脚した 「胸騒ぎのデパート」(東京書籍)を刊行。 紅白歌合戦、黒柳徹子研究などの趣味を持つ。

    はじめまして。寺坂と申します。

    みなさん、はじめまして。わたくし、寺坂直毅と申します。職業は放送作家をしております。現在33歳です。今月からCINRA.JOBで連載を書かせていただきます。何卒よろしくお願いします。

    「お前誰だよ!」というツッコミが多いかと思いますので、今回は自己紹介とさせていただきます。出身地は宮崎県宮崎市で、毛糸店とブティックを営む父と母のもとで生まれ育ちました。そこで青春時代を過ごし、放送作家を目指し、花の都・東京にて生活するようになりました……と、明るくハツラツに自己紹介を書きたいのですが、青春時代、どうやら他の同世代と比較すると、かなりこじらせておりました。よく飲みの席で「不幸自慢」になる事ってありますよね。絶対勝者になりたくないものですが、こういう類の話では、私は満場一致で「一番不幸」という刻印を押されてしまいます。でも、今では自分の好きな仕事をやっています。いや、「でも」ではなく、「だからこそ」なのかもしれません。

    暗黒時代のはじまり。

    私は幼稚園、小学生の時からジメジメしていました。暗く、人と会話もできず、コミュニケーション能力がありませんでした。それなのに、クラスの中心人物が羨ましくてたまりませんでした。「ああいう人たちと友達になりたい。けど、自分なんかと友達になってくれないだろう」。そんなジメジメ、ウジウジした気持ちで、人気者をずっと後ろから見てました。結果、存在感がなく、友達がなかなか出来ません。

    小学校の修学旅行で、事前に「バスの席順決め」という儀式があります。みんなが自分で希望を出して、「○○くんの隣に座ります!」と発言していく、僕にとっては悪魔の儀式です。当然、私の隣に座りたいという人は一人もおらず、結果保健室の先生の隣で2日過ごしました。魔の修学旅行。山道だらけのカーブでもないのに、精神的な問題なのか、よく吐きました。

    terasaka1_1中学生になっても、明るい性格にはなれず、精神的に病み、不登校児になっていましました。もう、どう考えても学校に行きたくない。行くという発想にならない。もう、足が動かない状態だったのですが、その理由は決して誰にも言えない。

    父親が、学校に連れていこうと、私を車に乗せて学校へ向かいます。私は行く気はないし、休む理由をつくりたい。行きたくない。どうしても行きたくない。そこで編み出した1つの「技」がありました。

    制服を着ます。朝食を口に入れます。そして、水を少し含みます。それで、車に乗ります。10分ほどで学校へ着き、車のドアを開けたところで、それを吐くのです。演技です。ニセ嘔吐です。役者の血糊みたいなものです。結局、中学2年の夏から、中学校には一度も行きませんでした。

    その後、養護学校に在籍する事になりました。そこには不登校で悩む同世代がいました。みんな優しいし、先生方もいい方ばかりです。それでも僕にはそこにも通う事が出来ませんでした。

    学校に行かない14歳の生活は本当に荒んだものです。想像してみてください。生活のリズムが変わり、昼夜が逆転します。朝、「めざましテレビ」を見て就寝、夕方、「スーパーニュース」の時間に起床するという生活です。

    基本的に家族以外の人とは会話をしない生活です。たまにコンビニで店員さんと話すときでさえ、滑舌悪くよく噛んでたのを覚えています……。

    しかし、そんな生活のおかげで、今の仕事と繋がるモノと出会うことができました。

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    深夜ラジオとの出会い。

    深夜ラジオとの出会い。

    インターネットがないあの頃の生活の友といえば「ラジオ」でした。

    母から買ってもらったラジカセ。眠れずにつけた深夜ラジオに夢中になり、ハガキを出すようになりました。ただ笑っているだけではなく、自分も笑わせたいと、ハガキでネタを書くようになりました。いわゆるハガキ職人です。友人はいないけど、自分のネタが読まれた時は、全国のリスナーと仲良くなり、心が通じあったような、不思議な気持ちになるのです。

    今のラジオはメールですが、当時は50円のハガキ。1つのネタにかける重みがありました。次第に、ラジオで芸人さんと一緒に笑い、台本を書く「放送作家」という仕事に憧れるようになりました。

    毎週、文化放送の「今田耕司と東野幸治のカモンファンキーリップス」にハガキを投稿していました。放送時間は、毎週水曜の深夜0時~2時。ただし、宮崎放送は0時~1時しか受信していません。

    そこで、1時になると、ラジカセをベランダに設置し、東京の方角に向けて雑音混じりで聴いていました。春と秋は涼しくていいのですが、夏は暑さと蚊、冬は寒さとの戦いです。それでも、ハガキが採用されれば、その苦労は吹き飛んでいくのです。
       
    そうこうしているうちに、高校へ行かなくてはならない時期になりました。養護学校の先生に、作文を書く事によって入学できる高校を教えていただきました。定時制高校、つまり「夜間高校」です。

    宮崎県立東高等学校夜間部。昼間働いて、夜学校へ通う人々、そして、私のように中学に行けなかった同世代が学んでいました。夕方17時スタートし、夜21時終了。下は10代から、上は60歳近いおばあちゃんまでいました。

    しかし、ここでもなかなか馴染めません。授業を真剣に聞いている学生はほとんどおらず、昼間看護婦をしている女性が授業中に大声で話す、昨晩の彼氏とのベッド上での経験談ばかりが印象に残りました。

    授業中になぜかガラス窓を割る人がいたり、21時の終了時間には、暴走族がやってきて怖い思いをしました。私は自転車で通学していたのですが、それも苦痛でした。その高校が、宮崎県内のナンバー1エリート高校と隣接しているのです。という事は、通学で同世代の優秀な人とすれ違うのです。その度に、コンプレックスで吐きそうになるわけです。

    「妄想ラジオ」が開局。

    そのころは、ある妄想をして過ごしました。それは今の仕事と繋がることでもあります。架空のラジオ局「東放送」という妄想です。

    その高校は「宮崎東高校」といったのですが、神宮東という住所から僕は高校を「東放送神宮放送センター」という名前にして、自分は「生徒」ではなく「パーソナリティ」だという架空の設定をしました。つまり、授業時間の夕方5時から9時までの月~金の夜ワイド番組のパーソナリティとして、3年間の高校生活を送っていたのです。あくまでも妄想ですよ。

    terasaka1_2番組のタイトルは「寺坂直毅のイーストラジオ」。(通称イーラジ)。途中の休み時間10分間は、アイドルの収録モノの帯番組です。

    学校を放送局と想像すると、いろいろ楽しみが広がるのです。学校の体育館は巨大なスタジオ。大型歌番組を収録できる「Eスタジオ」という名前を勝手につけていました。

    「東放送」はテレビもあります。ただ、学校の敷地だけでは手狭です。そこで、学校から1キロほど離れた、宮崎県総合文化公園にある「宮崎県立図書館」を、勝手にテレビスタジオだと設定しました。名称は「東放送文化公園放送センター」。ここでバラエティを収録している設定です。

    また、近所に「メディアシティ」という巨大レンタルビデオ店がオープンしたので、「東放送メディアシティ」という名称のドラマ専用スタジオも設定しました。

    この3つの「神宮東放送センター」「文化公園放送センター」「メディアシティ」はそれぞれ離れているので、僕は放課後、1人で循環バスと見立て自転車で走らせていました。はい、すべては妄想です。

    こうして私は、自分の妄想番組「イーラジ」を3年間勤め上げたのです。深夜ラジオにハガキを出す作業、そしてこの「妄想放送局」。この3年間は、楽しくて仕方がない3年だったと思います。

    そしてこのころ、自分が好きなものは「放送」なんだと確信しました。

    不幸は自分の支えになる。

    そう決まれば、同級生とすれ違おうが、何も怖いものはありません。その後上京し、放送関連の専門学校に通いました。独り暮らしも平気でした。専門学校も始めは馴染めなかったんですが、はじめて友達が2~3人出来ました。友達ができると、いろいろと周りが明るくなるものですね。

    そして、テレビ業界にADとして入り、現在様々な人の力を得て、今放送作家をしています。高校時代の「ハガキの投稿」と、「妄想放送局」があり、放送業界の面白さを感じて今があるのです。

    こうなると、少年時代の不幸があったからこそ今があるのだとつくづく実感します。連載第1回なのに、暗い少年時代からスタートとなりました。その後僕が、「好きなことを仕事にする」ためにどんなモノに出会い、どんなことをしてきたのか、この連載を通して紹介していければと思っています。