第4回:憧れを仕事にする!

寺坂 直毅(放送作家)

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放送作家として知られる寺坂直毅さんは、デパート、紅白歌合戦、徹子の部屋など、とてもピンポイントなモノやコトに膨大な知識を持つ、その分野の“博士”。いわゆる“マニア”だ。今回のコラムは、現在の寺坂さんのメインのお仕事である「ラジオ」の仕事を手にするまで。好きなことを仕事にするためには、いったい何が必要なのか?
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      寺坂 直毅

      1980年宮崎生まれ。 放送作家として、テレビ、ラジオ番組の構成を担当。 家から徒歩圏内にデパートが何軒も乱立する環境で幼少期を過ごし、 魅力に憑りつかれたために日本全国のデパートを行脚した 「胸騒ぎのデパート」(東京書籍)を刊行。 紅白歌合戦、黒柳徹子研究などの趣味を持つ。

    不登校の少年時代を支えてくれたラジオ

    以前このコラムでも述べさせていただきましたが、「ラジオ」が大好きで、よく聴いています。家ではもちろん、移動中にもラジオを聴きます。移動しながらのラジオといえば、カーラジオを連想する方がいらっしゃると思いますが、私は車の免許を持っていません。徒歩です。歩きながらラジオを聴いてるんです。

    ラジオを愛するようになったのは、中学2年の時です。引き籠りになり、朝寝て夕方起きるという、昼夜逆転した生活。眠れない夜に何気につけてみたラジカセのラジオが、その時期を支えてくれました。毎晩、生放送で喋るパーソナリティと一緒に過ごしていました。

    ラジオは「夜は寝る時間」という常識を覆してくれました。深夜1時から3時は、人気芸人やアーティストが番組を持つ、ラジオにとってのゴールデンタイムです。芸人のトークで笑い、ミュージシャンの音楽に涙しました。

    そして、深夜3時から5時は、「その時間を起きている」様々な状況の人に向かって話しかける、よりパーソナルな雰囲気の番組に勇気づけられました。特に記憶に残っているのが、トラックドライバー向けの、演歌歌謡曲のリクエスト番組。真夜中に高速道路を、目的地に向けて走る人を励ましながら、演歌歌謡曲をかけるのですが、寝てる時間に働く人を想像するだけで、「自分もどこかに向かって走りたい。朝に向かって走りたい」と思えたのです。だから当時は、トラックドライバーになりたいと本気で考えていました。

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    また、不登校を経験したパーソナリティが話す番組が木曜深夜3時からあり、そこで、パーソナリティが話した「無理して学校に行く必要はない」という言葉には、前向きな気持ちになれました。「学校に行かなくてはならない」という考えから「学校に行かないなら、何か別のことをすればいい」という考えになり、そこからラジオ番組へのハガキの投稿を始めました。

    ラジオのプロフェッショナルは皆口を揃えてこういいます。「ラジオは大勢に向けたメディアではない。聴いている1人1人に向けたメディアだ」と。まさにその通りで、自分に向けて、話をしたり、音楽を伝えてくれる。それは私が身をもって体験していました。

    初めてのディズニーランドは……

    同じく中学2年の時、初めてディズニーランドに行きました。1人で行きました。スプラッシュマウンテンの行列を1人で並ぶ退屈さといったら……。しかし、そこでTBSラジオの『大沢悠里のゆうゆうワイド』を聴いていました。

    ラジオを聴きながらだと、行列なんてあっという間です。楽しく美しい夢の世界で、現実的なAMラジオを聴くというのは、軽い自分自身への否定というか、オリエンタルランドへの挑戦というのか、なんともいえない感覚です。皆さんも試してください。

    私が聴いていたのは、地元の宮崎放送・MRTラジオでしたが、関東、近畿、福岡のラジオを一度聴くと、やみつきになって「毎週聴きたい」と思う番組が増えてきます。しかし、住んでる町のまわりはビルが多く、電波は宮崎のラジオしか聞けません。そのため、好きな番組の時間は、自転車で家から数キロ離れた宮崎港へ行き、関東や近畿の方角にラジオを向けて、雑音交じりで必死で聞いていました。

    韓国のKBSラジオの放送が混信してしまうのですが、波のような感じで、時間によっては、はっきりと都会のラジオが聴けるのです。そして宮崎にいながらにして、別の土地のラジオを聴くというのが快感になっていました。やがて10年後に「radiko.jpプレミアム」が始まることを、港で、冬の冷たい潮風に吹かれて、顔がベッタベタになってラジオを聴いていた幼き自分に教えてやりたいです。家にいながらにして全国のラジオが、わずか牛丼1杯ほどの値段で聴けるなんて……。

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    ラジオの仕事に出会うまで

    ラジオの仕事に出会うまで

    さてこのコラムのテーマが「自分の好きなものを、仕事にする」という事なのですが、僕にとってラジオのお仕事も、それに当てはまるかもしれません。

    『今田耕司と東野幸治のカモンファンキーリップス』に毎週ハガキを投稿するようになり、夢中になって放送を聴いていた高校時代。そのとき、放送内で一緒に笑う職業に憧れるようになりました。放送作家です。   

    そういうわけで、夜間高校を卒業後に上京し、放送系の専門学校に入学。放送作家を目指します。就職活動ということで「放送作家募集」の求人票を見てテレビの制作会社へ行ったのですが、そこの社長に「すぐに作家になれるわけねぇだろ!」と言われ、アシスタントディレクターとしてキャリアをスタートしました。

    そこで4年ほど下積みをした後、先輩に放送作家になりたい思いを伝え、リサーチ(番組の下調べ)という仕事から始め、テレビのお仕事をいただくようになりました。

    しかしテレビをやりながらも、いつかは大好きなラジオをやりたいという夢がありました。

    紅白とデパートと同期が、僕をラジオへ導いてくれた

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    私がラジオの仕事をいただくようになったのは、実に不思議な縁でした。J-WAVEで、アンジャッシュの渡部建さんが「PLATOn(プラトン)」という番組を、月~金の夜10時から生放送でやっていました。日替わりで「哲学をする」という番組で、毎日様々な特集をする番組です。

    そこで、2007年の12月に、「紅白歌合戦」の哲学を特集するらしく、ゲストを探していたのだそうです。その時、当時J-WAVEでお昼の番組を担当していた、同じ放送系の専門学校で学んだ女性放送作家が、当時のPLATOnのディレクターに、「寺坂っていう紅白マニアがいる!」と話したのです。それで、生放送に呼ばれ、「PLATOn」で紅白の哲学を話させて貰いました。その後も、別で「デパートの哲学」で呼ばれるようになり、年に2度ほど、J-WAVEへ行くようになったのです。

    ちなみに知らない人にご説明しますと、J-WAVEは六本木ヒルズの33階にあります。スタジオやオフィスは、古い表現ですが、月9の世界(トレンディ)です。テーブルから照明から椅子から、全部J-WAVE仕様の特注。働いているディレクターもみんなシュッとしています。女性ADも何故かかわいい子が多いのです。当時そこに自分が行くと、異世界で、違和感を抱きコンプレックスを感じて局を後にしたものでした。
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    初めてJ-WAVEに行った時は、自分の容姿とJ-WAVEで働いている人のシュッとした感じのコンプレックスで吐き気がしたので、慌てて、六本木駅近くの吉野家へ入ったのです。すると、そこでシュッとして働いていたディレクターが牛丼に卵をかき混ぜて、グチャグチャにしてガッツいたのです。それを見て「あ……心は我々と同じなんだ」と、ホッとしたのを覚えています。

    そして、2年後の2009年11月頃、そのディレクターから「深夜番組の企画を考えない?」という電話がありました。その打ち合わせの会議室にいたのは、ディレクターと先ほどの女性放送作家です。同期とそういう場所で出会うのは照れくさく、しかし何とも言えない嬉しさがあるのです。

    色々ネタを出したのですが、同期が「放送作家が自ら体を張って調査し、アーティストに自分でレポートする深夜番組」というのを紙に書いて提案していました。当時、私たちは、テレビ東京でお金がないので、「スタッフが自ら情報を調べる」というコンセプトの番組を担当しており、色んな調査をしていました。

    例えば「沖縄の成人式の実態を探る」「森進一の“こんばんは 森進一”ですを最初に言い始めた人を探す」という内容などなど。

    その中で、「日本人でオッパイを出して働いている人は何人いるのか?」という企画があり、そこで私が「刑事」として、実際にソープランドや、風俗情報誌編集部、警察庁、アダルトビデオ会社、アダルトビデオ販売店などへ行き、数を調べるという事をしました。その結果は、どれもドラマがあり、感動があり、知られざる事実がありました。

    こういう事をラジオでも出来たらどうかと思い、案が通り、スタートしました。その番組のタイトルは「RADIPEDIA」。ディレクターは、この番組でプロデューサーになり、同期と共に、2010年1月にスタートする事になりました。

    そして、数えきれないほどのラジオの「作る側」の面白さを知ることになったのです。それはまた次回。