Interview 私としごと

サッカー界からIT界へ、縦横無尽に挑戦は続く

Ustream Asia株式会社
落合 弘幸(マーケティング部)

シンガポールで育ち、現地のインターナショナルスクールで学生時代を過ごした落合さん。同級生たちがアメリカの名門大学に進学する中、自らの道に選んだのは、日本の大学でプロのサッカー選手を目指すことだった。そして卒業後は、堪能な語学力を生かし、通訳として世界の有名選手とサッカーの技術指導に飛び回る日々……。20代前半にして、日本のみならずアジアを舞台に活躍の場を広げる。しかし、誰もがうらやむポジションを捨てて、2010年に突然の転身。幼い頃から追い続けてきたサッカーの道から飛び出し、IT界に挑む理由とは―。「常に新しい世界を見ていたい」と話す落合さんの道のりを伺った。

プロフィール

落合 弘幸

1984年生まれ。シンガポール育ち。United World College of South East Asia(シンガポールの高校)を卒業後、筑波大学体育専門学群へ進学する。2007年に株式会社クーバー・コーチング・ジャパンに新卒入社し、グローバル展開するサッカースクールの運営や指導者の育成に従事。2010年にUstream Asiaに転職。日本語版の立ち上げ当初からの中枢メンバーとして、サービス運用、プロダクト企画に携わり、現在はマーケティング部でサイト企画を担っている。

https://twitter.com/Hiroyukiochiai

インタビュー・テキスト:早川すみれ 撮影:すがわらよしみ(2013/11/1)

シンガポール時代に募った日本への憧れ

―落合さんは、シンガポール育ちだそうですね。

落合:正確に言うと、東京で生まれて、僕が4歳の時に家族で移住しました。両親とも日本人なのですが、昔から海外志向が強かったらしく、知人から紹介された仕事で移住を決めたそうです。今でも両親が住んでいて、僕自身、小学校から高校までインターナショナルスクールの義務教育を受けていたので、地元はシンガポールだと思っています。

—そしたら英語もペラペラでしょうね。幼少時は、どんな学生生活を送っていたのでしょう?

落合 弘幸

落合:当然、周りも外国人ばかりで、クラスメイトの出身国は10カ国以上。今思うと、いろんな価値観に触れられる日常でした。それから、僕の通っていた学校では、日本のように全員が同じ教育を受けるのではなく、自分で科目を専攻して、それを集中的に勉強するんです。自分の好きなことを選べるから、好きな分野で頑張れるという環境が徹底されていて。その分、成績のボーダーラインも明確に設定されていたので、到達しない生徒は落とされてしまうという(笑)。つまり教育に関しては、かなり厳しかった面もありますね。そんな中、僕はというと10歳の頃からサッカーに夢中で、家でも日本のサッカーの試合を見て、釘付けになっていました。

―なぜ、日本のサッカーに興味があったのですか?

落合:シンガポールはサッカーがそこまで強くないので、強い選手がたくさんいる日本のチームに憧れていたんです。サッカー以外にも日本のテレビ番組はよく見ましたよ。北海道にいる祖母にドラゴンボールのビデオを送ってもらったり、日系のデパートでもマンガを買ったりして、日本のカルチャーが大好きでした。だから、長い休みになると海外旅行ではなく、必ず「日本に連れて行って!」と、親に催促していたほどです。

―ご両親が海外志向な一方で、落合さん自身は日本志向が強くなっていったと(笑)。サッカーは本格的に打ち込んでいたのですか?

落合:もともとプロを目指そうと思っていたので、高校1年生の時には、サッカーで有名な北海道室蘭大谷高校(注:当時)に8ヶ月間留学しました。シンガポールでは、どこのサッカーチームに入っても練習はせいぜい週1回。だから日本では毎日サッカーができることと、テレビが見られることが幸せでしたね(笑)。
日本の学校に通ってみて印象的だったのは、サッカー部の上下関係。先輩が来たら足を揃えて挨拶をするとか、ボールが転がってきたら手で拾って、アンダースローで返さなければいけないとか。初めて知る文化は、不思議で仕方なかったです(笑)。

英語を武器にサッカー界で飛び回る

―そんな経験もありながら、インターナショナルスクールを卒業後はシンガポールではなく再び日本へ渡り、筑波大学に進学されていますね。

落合:元々、進路を考えた時にサッカーでプロ選手になるか、先生になるか、という選択肢が自分の中にあって。なんだかんだで、北海道での経験が楽しすぎたこともあり、周りのクラスメイトが欧米に進学する中、僕は日本でサッカーを極めたいと思いました。筑波大学は、中山雅史さんや井原正巳さんなど、有名選手をたくさん輩出している大学。さらに調べると、教員免許を取る人が多いことでも有名だったので、プロのプレーヤーになれなくても、教える立場になれる可能性もあるだろうと思って決めたんです。

―実際に筑波大学サッカー部に入って、いかがでしたか?

落合 弘幸

落合:さすが日本有数の名門校だけあって、本当にレベルが高かったです(笑)。ただ、1つだけ気になったことは、僕はフォワードなんですが、無理だと思われる場所からでも、たまにシュートを打ってみたりするんです。すると、周りの選手たちが「空気読めよ」という感じになる時がありました。もちろん世の中にはそこから決めている人もいるから、あり得ない行為ではないはずなんですよ。はじめはこの感覚に、少し違和感を覚えましたね。

―それは良くも悪くも、日本の社会全体にある風潮かもしれませんね。

落合:当時サッカー部員は1軍から7軍まで全200名弱いて、なんとか3軍まで上り詰めたんですが、それ以降の壁が厚かった……。実力の違いを痛感して、2年生の時に、プレーヤーから教える側に路線変更することに決めたんです。その後は、コーチを目指して、サッカー関連のバイトを積極的にやって経験を積んでいました。そんな中で出会ったのが、前職のクーバー・コーチング社でした。

―クーバー・コーチング社は、サッカースクールの運営や育成をグローバル展開している会社ですね。そこでは、どんな仕事に携っていたのですか?

落合:育成といってもプレーヤーを育てるのではなく、コーチに指導方法を教えるというのが、この会社のメインの仕事でした。僕は通訳としてコーチたちに指導を伝えながらノウハウを蓄積して。そのうち、中国、タイ、シンガポールなどアジアのあらゆる国々を回り、僕自身が指導法を教えるようになりました。ほかにも、イングランド代表のマイケル・オーウェンがいたユースチームを教えたり、当時ブラジル代表のカカが来日した際に、一緒に日本の子どもたちにサッカーを教えたり……。一般的にコーチや監督になるためには、指導ライセンスを取得する必要があり、大体40歳以上でなければ認められないといわれる日本サッカー界ではありえない経験なんです。僕は英語が話せたことで、通訳という間接的な立場ではあるけれど、20代前半で指導する立場に携わることができました。

―まさにそれは「英語力」があったからこそ、やり遂げられたことですね。そうしたら、サッカー界でも将来が有望だったのではないですか?

落合:友人にも同じことを言われました(笑)。通常、30年かけて10割達成できることを、数年で8割達成しちゃったと個人的に感じましたね。じゃあ、残りの2割をどうするか。もしそこでワールドカップ日本代表に、例えばコーチとして携わりたいとなれば、やっぱり日本だと年功序列で、40歳以上にならないと難しいのが現状なんです。それでこれから20年かけて残りの2割を突き詰めるのは効率が悪いと思い、一旦サッカー界から離れることを決意しました。ちょうどその時、IT界への興味も高まっていたので、まずは飛び出してみようと思って。1つの業界で極めるよりも、1つの業界のノウハウが得られる方が、倍のスキルとなって、自分の糧になると思ったんです。

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Twitterとブログを駆使し、IT界へ転職

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