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ひとりより、誰かと一緒に伝えたい

日英バイリンガルのWEBメディア『Time Out Tokyo』を軸に、フリーマガジンやガイドブックも展開しながら、都市を楽しむ目利き情報を発信するタイムアウト東京。そこでコンテンツディレクターを務める東谷彰子さんは、FMラジオ局のディレクターを10年近く務めた後に、この世界に飛び込んだ経歴の持ち主だという。そのキャリアについてお話を伺う中で見えてきたのは、自ら突出した得意分野はなかったと語る彼女流の「伝えること」に対するこだわり。さらに、小さなお子さんを育てながらの仕事に対する姿勢なども伺った。

Profile

東谷 彰子

1977年生まれ。幼少期はマニラで、中学高校はバンコクで過ごす。大学入学のため1996年に帰国し、早稲田大学の教育学部英語英文学科で学ぶ。卒業後に「TOKYO FM」に入社。1年間の秘書部勤務ののち、番組制作ディレクターとして多様な番組を担当する。2010年1月にタイムアウト東京株式会社へ入社。コンテンツディレクターとして、取材、執筆、編集、企業とのタイアップ企画や、営業、PRなどを幅広く担う。

バンコクで考えた「ちゃんと伝わる」ことの意味

―東谷さんは、中学・高校時代はタイのバンコクで過ごされたそうですね?

東谷:はい。父親がバンコクに転勤になり、自然と家族みんなでついていく形でした。幼いながらに説得されたというわけでもなく、母に「タイは果物が美味しいんだよ?」と言われ、「そうかぁ〜行ってみたいかも」といった感じで(笑)。

―そんなバンコクから、いつ日本へ戻ってきたのですか?

東谷 彰子

東谷:大学からですね。高校までは一応インターナショナルスクールに通っていたのですが、アジア人や日本人が多く、英語をネイティブレベルに習得することができなかったので、英語をもっと勉強したいという気持ちから日本でも英語を学んでいきたいと思ったんです。それで入学したのは教育学部の英語英文学科。でも、自分には人に教えることを仕事にする姿がどうしてもイメージできず、結局は教職免許も取りませんでした。卒業が差し迫る中、何となくだけどマスコミを志望して就職活動を始めました。とはいっても、当初はマスコミの業界知識もほとんどなく、ほんと「何となく」決めたところもあったと思います。

—振り返ってみて、その「何となく」のきっかけはあったりしますか?

東谷:そうですね……。バンコクで暮らしていたとき、街を戦車が走るような大きな暴動があったんです。学校の送迎バスに爆弾が仕掛けられるなど、不穏な状況を知らせる日本のニュース番組を私も現地で見ていました。それで「厳戒態勢」「日本人は一斉に帰国」といった報道がされる中、心配した日本の知人からは電話もかかってきて。でも実際には、都市全体がそうだったわけではなく、私たちの住む区画はそこまで緊迫していなかったんです。そこで漠然と「目の前で起きていることを、 “ちゃんと伝える”ってどういうことだろう?」と疑問に思ったのを覚えています。

―凄い原体験ですね。それでジャーナリスト的な関心が芽生えたんでしょうか?

東谷:そこまでではないですね。ほんと単純な性格なので、就活中もメディアといって最初に思い浮かんだのは「ニュースを伝えている人たち」。当時の新卒募集が一番早く始まるのがテレビ局のアナウンサー職だったこともあり、まずはそこに応募してみました。でも面接官の方とお話をしていると「君がやりたいのは記者なのでは?」と言われ、「そうかぁ、記者か……」とまた思い直したり(苦笑)。

―ここでも進むべき方向が揺らいでいたと(笑)。

東谷:はい(笑)。私の場合は、「なんとなくこれかな」という手がかりから、マスコミという枠の中でひたすら入社試験を受けていました。テレビ、ラジオ、新聞社、出版社など。それで最終的に内定をいただいた中で、家族のいる東京で勤務できるTOKYO FMへの入社を決めました。

自らの想いを、多様な「声」と共に届ける

―そこから、生え抜きのラジオ番組制作スタッフとして成長していったと。

東谷:いえ、実は最初に配属されたのは秘書部だったんです(笑)。でも担当させて頂いた役員に「制作セクションに行きたい」としつこいくらい相談して、迷惑な新人だったと思いますよ(苦笑)。そんな感じですから秘書業務には向かないし、「そこまで言うならやってみれば?」と、入社一年後に番組制作部へ異動させてもらえることになりました。

―行動派ですね。念願の番組制作の仕事は、東谷さんにとってどんな体験でしたか?

東谷 彰子
東谷:他部署から制作部へ入った人は、すぐディレクターを任されることもありますが、私は入社2年目で経験が浅かったですし、そんな経緯もあってAD(アシスタントディレクター)からのスタート。それゆえの大変さも確かにありましたが、逆に色々な人の視点を理解しながら仕事を覚えられたのは良い経験だったと思います。ただ、私は特定のことに詳しい職人気質というわけでもないし、得意分野があるわけでもない。だからこそ、比較的ジェネラルにものをつくることができたんじゃないかなぁ、と今は思っています。

―そんな中で、特に印象に残っているエピソードはなんでしょうか?

東谷:松任谷由実さんの番組にADで携わっていたとき、「流れ星に願い事をすると叶う、と言うのはどうしてだろう?」という話になったんです。そこで松任谷さんが言っていたことが、印象的で。流れ星って、いつ現れるか誰にもわからない上に、一瞬で消えてしまいますよね。そんな瞬間にもすぐ唱えられる願いというのは、「それくらい強い想いでいつも抱いているものだからじゃないかな」と。今でもとても心に残っている言葉です。

―ご自分では、自身で表現を研ぎすましていくよりも、チームで一緒に作っていくことの方が向いていると思っていますか?

東谷:人と話すことや素敵なものを引き出すことは好きだったので、そういったものづくりには向いていたのかもしれませんね。ただ自分だけでは何も出来ないし、正直にいうと自分ひとりでやりたいことは余り無いタイプなのかもしれません。だから、制作の過程で最初は漠然と考えていたテーマが、他の人達と一緒に具体化されて形になっていくのは嬉しかったし、本当に面白かったですね。

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あなたに合う仕事がある!

あなたに合う仕事がある!

—10年近く続けたラジオの仕事を離れ、現在の職場、タイムアウト東京社へ転職したのにはどういった経緯が?

東谷:TOKYO FMのディレクター時代は、一番多いときで週11本の番組を担当していて、今思うとそれだけの仕事を任せられていたのは幸せなことですが、立ち止まる時間もないほど仕事に没頭していた毎日でした。特に最後の約5年は朝5時の番組担当で、スタジオ入りは午前3時。完全に昼夜逆転していて(笑)。それでちょうどその担当が終わり、急にポッと自分の時間ができたとき、ふと、「次の10年も同じ感覚で力を注げるか?」という疑問が頭に浮かんだんです。そんな時に、偶然にも今の代表から「日本でタイムアウトを立ち上げるから参加しないか?」って連絡があって。何か意図せず「一瞬の隙」に見事に誘われたような(笑)。

—まさに、タイミングですね。

東谷:そうなんです。私がそうなるタイミングを見計らって連絡してきたのかと思うくらいだったんで(笑)。

—でもラジオの世界とは業務もだいぶ異なりそうです。そこに迷いなどもあったのでは?

東谷 彰子

東谷:確かに少しの不安はありました。でも、「ラジオの経験しかない私にできますか?」って聞いたら、「既存のメディアではないものをやりたいからこそ、君に力を発揮してほしい」と言ってもらえて。代表とは、以前から互いをある程度知っている間柄で、この時の誘い文句が「この仕事は君に合っていると思う」だったんです(笑)。それまで、「自分に合った仕事は何か?」って、考えたことすらありませんでした。それくらい駆け回っていた20代を過ごしていたんです。ましてや第三者から、仕事に対してそんなことを言われたのは初めて。そんなに言うなら、私にできる形で挑戦してみようと思い、転職を決意しました。

—当初はやはり、異分野からの参加ゆえの苦労もあったでしょう。

東谷:入社したばかりの頃に書いた原稿に修正が入り、真っ赤になって返ってきたのは、今でも鮮明に覚えています。赤(修正)が入っていなかったのは「富士山」という固有名詞ひとつだけで(苦笑)。作法は違えどラジオの世界で文章もそれなりには書いてきたつもりでしたから、そこまで直されるのは予想外の衝撃でした。でも視点を変えれば、自分にそこまで徹底的に付き合ってくれる人たちがここにはいる、ということ。それは、大きな励みでもありましたね。

—現在『タイムアウト』は世界40都市でそれぞれ独立して運営されつつ、互いに連携もしているとか。実際に働き始めての魅力や発見はどんなものがありましたか?

東谷:私がタイムアウトのことを特に大好きになったのは、世界各都市のパブリッシャーやエディターが、年に一回集う国際会議でのことです。私はリスボンでの会議に参加したのですが、そこで見たイスタンブール(トルコ)とテルアビブ(イスラエル)の記者のやり取りが非常に印象的で。当時、政治情勢では対立関係にあった二国ですが、記者同士はそんなこと関係なく、自然に話しをしていました。そこでの「今度、お互いの記事を交換して掲載し合わない?」という簡単な会話が、本当にそれぞれの都市で発行される記事で実現したんです。基本的にタイムアウトではローカルな都市情報を発信していますが、こういう形でグローバルな発信もできることを知り、無限の可能性を感じましたね。

子育てをしながら仕事を続ける喜び

—抽象的な「グローバル」ではない、実態のあるコミュニケーションが東谷さんにとって魅力的だったのでしょうね。今は、どのようなお仕事をされているのですか?

東谷:コンテンツディレクターとして、主に記事広告など他の企業との取り組みを提案する営業も担当し、たまに取材やインタビュー記事などの執筆もしています。最初は広告も全然売れないし、営業の仕事は自分には不向きでは……、と悩んだ時期もありました。でもある時、知人が「営業は、きっと『お見合い』みたいな仕事なんだよ」と言ってくれて。それで「お見合い」という言葉が、自分の中で何かピタリとはまったんでしょうね(笑)。それなら私にもできるかもしれない、と思い直すことができたんです。

—お見合い、ですか(笑)。

東谷:もし何かお悩みをお持ちでしたら、こういう企画で一緒に良い方向を目指しませんか、という感じですね。もっと言えば、「タイムアウトといういい娘さんがいてね、一緒になったらこんな良い未来が待ってるのよ」的な、おせっかいなおばさんというか(笑)。自分には目の前にいる人が発してくれるものからつくり、解決策を考えていくのが向いていると思うし、だからこそ、自分を必要としてくれる人を探しにいくのかもしれませんね。

—様々なご経験が今の仕事に役立っているように思います。一方、そうしてお仕事で活躍しながらも、ご家庭では2歳半になる息子さんの母でもあると伺いました。

東谷 彰子

東谷:そうなんです。私にとって「仕事」と「人生」の関係というのもすごく難しい質問で、今は息子との時間を大切にしたいのと同時に、この仕事も続けたい。だからこそ両方をきちんとできていない姿は子どもに見せたくないんです。朝食は必ず作って一緒に食べてから出社、土日は仕事を入れずに子どもとの時間、という風に日々の過ごし方も変えてきました。一昨年は子どもを連れてホノルルマラソンのウォーキングイベント「レースデーウォーク」にも参加してベビーカーを押しながら10キロ完歩したり、プライベートも満喫できるように心掛けているんですよ。幸い近くに住んでいる両親にも助けてもらいながら、ですけれど(笑)。

—とても充実した生活を送っているんですね。では最後に、1人の働く女性として、そして一児の母として、これから想い描くことは何でしょうか。

東谷:私は単純な性格なので、いわゆるキャリアパスみたいなものも、これまで描いたことはないんです。ただ「こう暮らしていけたらいいな」というイメージは常に持ち続けてきた気がします。そういうものと、自分の仕事に対する向き合い方の転機とが、いつも重なってきたのかもしれません。よく、仕事と生活は分けた方がいいという意見も聞きますし、そう思うことも確かにあります。だけど私は、仕事をしていることも生活だと思っていて。子育てしながら仕事を続けることを自分で選んだ以上は頑張りたいし、そうすることで得られる喜びも、大切にしたいと思っています。

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ミニカー

息子はミニカーが大好きなので、自然と集めるようになりました。特に、宅急便や路線バス、ゴミ収集車など、街中で働く車がお気に入りです。今では私自身も可愛いミニカーを見つけると買ってしまったり、遊びにきた自分の友人に「このミニカー、趣味がいいでしょ。ノベルティものだよ?」なんて、つい自慢してしまったり(笑)。でもそれは、今までそこにあっても意識していなかったような車に目がいくようになり、一緒に区の施設に「体験ゴミ収集車」を見に行くなど、以前の私なら想像もしなかった視点や体験でもある。それを、子どもと一緒に楽しんでいます。
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