Interview 私としごと

自分のお店を持つ。その夢が叶うまで

株式会社スマイルズ
中村 裕子(デザイナー)

幼い頃から「自分の作った洋服のお店を持ちたい」という夢を抱いてきた中村さん。美大を卒業後、イッセイミヤケに入社し、順風満帆なデザイナー人生がスタートしたかのように見えたが……。思うように仕事のできない葛藤、失われた自信、退職後の工場勤務ーー20代前半はもがいた時期だったという。やがて訪れたスマイルズへの入社という転機から、洋服作りという夢に向かい大きく前進する。ネクタイブランド「giraffe」の立ち上げに明け暮れた日から6年、自身のファッションブランド「my panda」を立ち上げ、夢のスタート台に立った彼女の仕事観を探る。

プロフィール

中村 裕子

1983年生まれ。多摩美術大学生産デザイン学科テキスタイル専攻卒業後、株式会社イッセイミヤケを経て、2006年有限会社giraffeにデザイナーとして入社。「giraffe」の立ち上げから参加する。現在もgiraffeの全商品のデザインを担当するかたわら、2012年、新ファッションブランド「my panda」を立ち上げて、デザイナーとして活動。

インタビュー・テキスト:池田園子 撮影:すがわらよしみ(2013/4/23)

税理士の家庭で生まれた、純真。

―現在、中村さんはファッションブランドのデザイナーをされていますが、昔からそのような素養があったんですか?

中村:小さい頃からよく絵を描いていましたね。一番最初に洋服をデザインした記憶は幼稚園児の頃で、祖母にお願いして、私が絵に描いたネズミをニットにどーんと入れてもらったんです。自分のデザインが服になったことが、すごく嬉しかったのを覚えています。モノづくりは全般的に好きだったので、中学生になってからは自分で洋服を作るようになりました。生地を染めてスカートを作ったり、シャツを作ったりと。

—そんな小さな頃から、よく作れますね。

中村 裕子

中村:それこそ『Olive』や『Zipper』の影響で、そこに登場する洋服を参考にして作ってましたね(笑)。そしたら親からも友達からも褒められたりして、それもまた嬉しくって。それで中2の時にミシンを買ってもらってからは、さらにたくさんの洋服を作るようになりましたね。その頃から「ファッションデザイナーになりたい」っていう夢を抱いていたと思います。

―なるほど。では、高校卒業後も服飾系の専門学校とか?

中村:いえ、美大に進学しました。本当は専門学校で服作りを勉強したかったんですけど、結構厳しい家庭だったので「せめて大学は出なさい」と親からキツく言われちゃって。私の家族、みんな税理士なんです。それもあって、何か違ったことをやりたかったのかも(笑)。ただ、せっかく大学に行くなら、自分が興味を持てることを勉強したいと思って、服の生地について4年間みっちり勉強できる、テキスタイル専攻のある多摩美術大学へ進むことにしたんです。

―大学では、どんな学生生活を送っていたんでしょう?

中村:私はテキスタイル科の「織コース」を選んだので、1年生のうちは色彩の勉強など基礎的なことを学ぶのですが、2年生になると1人1台、自分専用の織り機が使えるようになるんです。それこそ、「鶴の恩返し」のような機械です(笑)。その織り機を自由に使えるようになって、さらに服を作ることの楽しさが増していって。今考えれば、当時からいわゆるアーティスティックな服ではなく、普段から着るリアルクローズよりの服を作っていました。

―大学卒業後はイッセイミヤケへ、ということですが、それはどういった経緯で?

中村:大学4年時は卒業制作に夢中で、就職活動はまったくしていなかったんです。卒業する3月になってから、「私、4月から仕事とかどうするんだろう……?」って。その頃、あるパタンナーさんの下でバイトは続けていたんです。その方が進路の決まっていない私を心配して、イッセイミヤケでデザイナーを募集していることを教えてくれて、テストを受けに行きました。ご縁ですよね。

社会人一年目からの紆余曲折。

―イッセイミヤケに入社後は、どんなお仕事をしていたんですか?

中村:中学のときから抱いていた「自分で作った洋服を売るお店を持ちたい」という願望を持ったまま入社してしまったので、いま振り返れば本当に青かったなと思います(笑)。もちろん最初から好きなように、洋服を作れるはずなんてないのに。企業に入るというスタンスが、全然わかっていなかったんだと思います。

―では、オフィスでデザイン業務を?

中村:いえ、オフィス勤務と言っても、必ずしもデザインをするわけではないんです。1年目ということもあり、先輩方がスムーズに仕事をできるよう、サポート業務をしていました。それを繰り返しているうちに、「私だって本当はできるのに!」、という想いや葛藤が強くなってきて。その後、小物などのデザインができるようになって目の当たりにしたのが、やっぱり服飾系の学校出身の方は、レベルが高くて追いつけないということ。中にはパリコレを経験している人もいましたし。その人たちと比べて、私は圧倒的にできなかったんです。それが毎日、とにかく悔しくって……。

―その大変な時期をどう乗り越えようとしたんですか?

中村 裕子

中村:頑張っているところを人に見られたくなかったから、誰よりも朝早く会社に行って、ミシン掛けの練習をしていました。負けず嫌いなのでしょうね(笑)。それで、仕事が終わってからは、パターンの勉強に行ったり。毎日、それはもう一生懸命になって勉強して。だけど、世の中の厳しさというか、現実というか、自信という自信をすべてポキポキと折り曲げられた時期でした。

―その結果、およそ1年で退職した、と。

中村:そうですね。それで、自分でできる道を探そうと思ったんです。企業の中で活躍するデザイナーもいるかもしれないけど、私には何か別の方法がきっとあるはずだと。

―なるほど。退職後は、どう過ごしていたんですか?

中村:1ヶ月ほど実家にいて、何もせずに過ごしていました(笑)。あんなにがむしゃらだった私がずっと家にいる姿を見て、母もさすがに心配したのか、埼玉の縫製工場のバイトを勧めてきたんです。縫うのは好きだし、服に関われる仕事ではあるし、とりあえずはそこで働こうって。工場では「この子がどうして?」って思われてたみたいですが、私は職人さん達のレベルの高さに圧倒されて。みんなとにかく作業が速いんですよ。皆さんほんとにいい人達で、どんなときもやさしく接してくれて……。デザインの仕事はもう出来ないかもしれない、「ここで一生働こう」って、思うほどでした。このときは、結構心が折れてた時期だったんでしょうね、今思えば(笑)。

―工場では長く働かれていたんですか?

中村:いや、それが実は全然(笑)。ここでまた転機が訪れて。私がイッセイミヤケを退職したことを心配して、当時の上司が気にかけて連絡をくれたんです。それでいま工場で働いていること話すと、「そんなことしている場合じゃない!」って(笑)。それでネクタイのブランドを立ち上げようとしている人がいるんだけど、会ってみない? と誘われて、その紹介された人が今の代表の遠山でした。

―また、ご縁ですね。

中村:何年かに1回のペースで、こういったご縁があるんです。指定された代官山のオフィスへ行くと、あまりキレイとは言えない、縫われたネクタイがたくさんあって、「これがやりたいんだ!」ってアツく語られて。それで、ネクタイという未知の世界へのワクワクする気持ちだとか、またデザインをやりたいという想いだとか、いろんな気持ちが湧いてきちゃって。それで工場を泣く泣くやめて、「もう一回、デザインでがんばるか!」と思い、giraffeに入りました。

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着る人が喜んでくれることで、初めて完結できる

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