Interview 私としごと

ネタとカネは、社内に落ちていない

株式会社双葉社
安東 嵩史(編集者)

安東嵩史さんは老舗出版社・双葉社の編集者。週刊誌やファッション誌の編集部に属しながら、単行本をつくったり、他媒体で連載記事を持ったりとフットワークは軽い。「ほとんど会社にいることはない」と語る安東さんは、会社員ながらも自由に働くフリーランスのようにも見える。一体、安東さんはどのようにして現在のようなポジションを得るに至ったのだろうか。その軌跡と編集者としての信条を伺った。

プロフィール

安東 嵩史

1981年大分県生まれ。2004年神戸大学卒業後、双葉社に新卒入社。週刊誌、ファッション誌などに携わる。都築響一、宮沢和史らの書籍も企画。この春からはいくつかの新規プロジェクトを立ち上げ中。東日本大震災の際には支援プロジェクト「Todoke!」を主宰し、京都精華大学の講師や『STUDIOVOICE』はじめ他媒体での執筆も行なうなど多方面で活動している。

インタビュー・テキスト:村上広大 撮影:すがわらよしみ(2014/3/16)

どこにいても、居心地の悪さを感じてしまう。

―安東さんの少年時代ってどんな感じだったんですか?

安東:引っ込み思案で内弁慶でしたね(笑)。両親が共働きだったので祖母に育てられたようなものなのですが、だいたいは本ばかり読んで過ごしていました。僕の実家は大分市のはずれにあるんですが、その当時は本当に何もなかったんですよ。目の前は田んぼ、裏は山みたいな。
それで兄弟もいなかったので、遊ぶ相手もいなくて。そういう少年時代を過ごしたので、今でも一人行動が得意(笑)。あと、周りが年上ばかりだったので、子供ながらすごくマセていたと思います。小学生のときには書店で小林よしのりさんの『ゴーマニズム宣言』を立ち読みしたり、中学生のときには洋楽に傾倒したり。

―大学は神戸ですよね。地元を早く出たいと思っていたのですか?

安東 嵩史

安東:ずっと思っていましたね。とにかく1人で、見たことのない世界に飛び込むのが子供の頃から好きだったんです。バックパッカーに憧れたりもしましたが、小・中学生では実際に旅に出ることもできませんし、せいぜい自転車で山を越えて隣町に行くくらい。それで隣町へ行ったところでやっぱり田舎なので、やることがないんですよ。だから結局その街の本屋さんに行って、本を買って帰ってくるという(笑)。そんな田舎育ちだから、まだ見ぬ刺激が溢れている場所に行きたいという願望がやっぱりあって。僕は落ち着きがないというか、昔からひとつの場所に留まることができないんですよね。だからいつも、どこにいてもよそ見をしてしまい、居心地の悪さを感じてしまうというか。

—でもそれは新しい環境に身を置きたい、ってことの表れでもあるんでしょうね。

安東:どうなんでしょうね。実家は両親が公務員という非常に堅実な家庭だったし、「安定が第一だ」と言われ続けてきたので、根底では安定志向な部分もあるかもしれません。もちろんそれは大事なことなんですけれど、その一方で、反動でというか、常に「最新の自分であり続けたい」という気持ちが絶対的なものとしてあるんですよね。だから、意図して安定志向にならないようにしているところもあると思います。

なぜか、絶対に編集者になれるだろうという自信はあった。

―編集者になりたいと思ったのはいつ頃ですか?

安東:高校生の頃です。実はそれと同じくらい写真家にもなりたくて、自分で写真を撮ったりもしていたんです。高校を卒業したら、写真学校に通おうかと思っていたくらいだったんですが、あるとき気づいてしまったんですよね。決定的に「撮る才能」がないことに(笑)。でも、写真を見るのは好きだし、そこから意味や世界観を読み取ったりするのも得意だった。だったら自分で写真を撮るのではなく、例えば自分の好きな写真家の作品に自分なりの価値を与えられる人になろうと考えるようになって。自分の視点で世界を切り取り、自分の切り口で再構成する、という行為に興味を持ったんだと思います。

―それが「編集者」の仕事だと。

安東:当時は雑誌『Switch』とか『rockin’on』が好きで。「みんな思うままに自分の雑誌を作れていいなあ」と思っていました。今思うとそんなことなくて、どこにもそれなりの苦労があると思うんですけど(笑)、ひとつのパッケージに自分の想いをつめることを意識したきっかけというか。もともと、自分自身が作家になりたいとか、自ら表現したいとかいう欲はあまりなくて、そこまで表に出たいとは思っていないんです。ただ、そういったクリエイターたちのことは非常にリスペクトしていますし、ものをつくる、ということはもちろん、つくりあげるまでのコミュニケーションに面白さを感じる部分があって。編集者を志したのはそこですね。といいつつ、出版社でバイトしたりとか、直接就職に繋がるようなことは、大学に入っても何もしていなかったけど(笑)。

―いわゆる内定獲得のための、ハウツー的なセオリーには乗っからなかった、と(笑)。

安東 嵩史

安東:今もそうですけど、すべてを自己流でやってきたので、会社に入るにはこういう勉強をして、こういうところで働いて、というセオリーに従う発想がなかったんですよ。「マスコミセミナー」みたいなものが存在することも知らなかったし、まあ知ってても入らなかったでしょう。そもそも、誰かの言う通り、やってる通りに動くことを嫌うタイプなので、「面接の対策なんかやって意味あんの?」とか思ってました。でも、なぜか絶対に編集者になるだろうという自信だけはあったんですよね。後々その自信はいったん打ち砕かれるわけですが(笑)。

―就職活動で現実を見た、と。

安東:当時、募集もしていないのに好きな雑誌などに履歴書を送ってみたこともありました。もちろん返事がくることはなく、定期採用をしてる出版社も受けていったのですが、順当に大きなところから落ちていきましたね(笑)。6社目で今の会社に内定をもらい、現在に至るといった感じです。うちの会社には『サッカー批評』というクオリティも業界からの評価も割と高い雑誌がありまして、面接で「サッカー批評を作りたいです!」と言ったんです。でも、いざ入社してみると、その雑誌は双葉社ではなく発注していた編プロがほぼつくっていたという(笑)。当然そこに配属しないことは会社もわかりきっていたわけで、自分の会社ながら「よく採用したなぁ」と思います。

―入社後はどこの編集部に配属になったのですか?

安東:入社して1年間は広告営業をやっていました。今思うと、すぐに「発注側」である編集部に入らないで、お金のために頭を下げる仕事が出来たのはよかったと思っています。やっぱりいきなり編集部の配属になると純粋培養されるというか、その編集部のやり方でしか仕事ができなくなる人が多いんですよ。でも、広告営業だといろいろな部署や他の業界とやりとりすることが多いので、知り合いもたくさんできるし、さまざまな仕事の方法論がわかる。それでクライアントの要望に応えられる方法を常に模索して、知識がないなりにタイアップ企画を必死に考えたり。一人で大きな案件をとってきたときの達成感も気持ちよかったですしね。だから、編集者になりたくて入社したのに、広告営業から編集へ異動になると知ったときには「営業をもっとやらせろ!」と言ってました(笑)。

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