アーティストの一番のファンとして、残る音楽を作り続けたい
- 2014/12/25
- SERIES
- インタビュー・テキスト:加藤将太
- 撮影:すがわらよしみ
Profile
今村 圭介
1977年生まれ、神奈川県横浜市出身。慶應義塾大学総合政策学部卒。新卒で東芝イーエムアイ株式会社に入社。宣伝を経て制作ディレクターに転身。ナンバーガールプロジェクトのアシスタントを経て、フジファブリック、現在はBase Ball Bear、9mm Parabellum Bullet、The SALOVERS、ザ・チャレンジなどを担当。
人と違うことがしたい、あまのじゃくな性格
―今村さんは新卒でEMIに入社してからずっと音楽業界で活躍されていますが、小さい頃から音楽が好きだったんですか?
今村:実は両親が厳しい家庭だったので、勉強とスポーツばかりをやっていて、エンターテインメントと交わった記憶がほとんどないんです。中学まではテレビも漫画もほとんど触れませんでした。
―それはなかなか厳しい環境ですね……。
今村:幼稚園の頃にヤマハの音楽教室に通っていて、高校生までピアノだけは習っていましたね。聴いていた音楽はクラシックか、車に乗るときに父がカセットで流していたビートルズくらい。
—まったく今を想起できない幼少期です。
今村:そんな生活だったからか、表向きとは違い、実は性格があまのじゃくだったと思うんです。作文の原稿用紙を縦書きではなく横書きにするような、常にそんな小さい反発心があって(笑)。敷かれたレールに対していつも疑問を感じて、周りと少しでも違うことをしようとしていたというか。一つの環境に慣れる前にすぐまた新しい環境に行きたいと思う性格でした。結果、高校1年のときに、日本から飛び出して違うものを見たいという気持ちが強くて、留学をしたんですね。そこで、音楽だけでなく色々な部分で自分の価値観が変わりました。応援してくれた両親には本当に感謝しています。
—留学先はどちらへ?
今村:アメリカのアイオワ州です。日本人は一人もいなくて、トウモロコシ畑が一面に広がっているようなところで。留学している間は人と違うことをしているという喜びが大きくて、特にホームシックにもかからなかったですね。そんな留学中に、ニルヴァーナのカート・コバーンが亡くなるというニュースが広がったんです。
—あぁ、1994年ですね。
今村:アメリカ中を巻き込むこの事件は一体何なんだと気になってニルヴァーナのCDを買ってみて。そこからガンズ・アンド・ローゼスとかAC / DCとか、いろいろなタイトルを買ってはCDプレイヤーの前でずっと聴き入っていました。そのうち、ラジオから流れてくるカントリーやR&Bとかもすごく好きになっていって。はじめて自由な環境に行ったことで、自分で何かを選んでいくようになった気がします。
—なるほど。
今村:高校卒業後の浪人期間には、音楽をやり始めました。大学は慶應のSFCに入学したんですが、勉強をほったらかして作詞作曲も自分でやって、音楽漬けの生活を送っていて。この時期に、「表現する楽しさ」は味わえたものの、上には上がいるというか、すぐ頭打ちだとも感じてしまったんです(笑)。ただ、この時の音楽経験は今の仕事に結びついていると思います。アーティストがモノを生み出すときやステージに立つときの気持ちが少しは分かる気がしていて。
—SFCには個性豊かな学生や教授が多い印象がありますが、在学中に受けた影響はありますか?
今村:政治とかビジネスとか、専門的な知識を持った人がたくさんいるというのを実感しました。授業で僕が何か意見を言ったときに「それは憲法何十条で定められているのでそもそも難しい」とか言われると、あぁもうダメだ、勝てないって思っちゃって。これもまた音楽と同じように上には上がいると思ったんですね、当然なんですけど(笑)。そんな時に出会ったのが、メディアクリエイターの佐藤雅彦さん。僕は環境や人を観察・分析して物事の成り立ちを知り、新しい何かを探ることは昔からごく好きだったので、佐藤さんのクリエイティブな講義にはのめり込みました。そこでさらに自分が提出した課題が評価されたりもして、自信がついた部分もあって。1を10にしていく専門性は自分には合っていないけど、何かを観察しながら0から1を作り出すことは好きだという気持ちから、将来はそういう仕事に就きたいと思うようになりました。
—なるほど。それと並行して音楽活動があった。
今村:そうです。自分に音楽の才能はないけど、圧倒的で素晴らしい才能を持つ人をサポートしながら0を1にする仕事がないかなと思い、音楽業界を選んで。結局、就活はレコード会社しか受けませんでした。当時は新卒募集自体が少なかったけど、思いきって4社だけ入社試験を受け、その中から2社の内定をもらい、当時の東芝EMIを選びました。
まさかの大阪へ転勤。そして宣伝から制作へ。
―どうしてEMIだったんですか?
今村:自分が好きなアーティストが多かったんです。松任谷由実さん、長渕剛さん、忌野清志郎さん、中村一義さん、ナンバーガール、スーパーバタードッグもいましたし、ちょうど僕が就活を始めた頃に、宇多田ヒカル、椎名林檎、矢井田瞳、鬼束ちひろといった女性ヴォーカルがブレイクして、洋楽ではビートルズからレディオヘッドまで所属していましたね。
―入社してからは、まず宣伝の仕事を担当していたそうですね。
今村:僕は制作志望だったので、アーティストと一緒に音楽を作りたいという気持ちしかなかったんですよ。でも入社後に配属されたのは宣伝。そもそも新卒で最初から制作という例はほとんどなかったんです。音楽を売る仕組みがわからないから、まずは営業や宣伝を経験して、ある程度把握してから制作に異動するというのが普通であって。通常通りというのが、僕は一番嫌いでしたけど(笑)。
―宣伝時代は主にどんな仕事を担当していたのですか?
今村:ラジオ局で曲をオンエアしてもらったり、番組出演のブッキングを交渉していました。ところが3ヶ月ほど経つと突然、大阪への転勤を伝えられたんです。同期は誰も地方に転勤なんて言われないし、周りで大阪に行った人たちは5年くらいずっと戻って来ていない。早く制作になりたいのに絶望的でした。
―モチベーション下がっちゃいますよね……。
今村:それで先輩に相談してみたんです。そうしたら、「じゃあ断ってくればいいじゃん」と。新卒で人事異動の発令を断るなんて発想がなかったから驚きました(笑)。でも、その先輩に「自由な業界なんだから、断ることが仕事。じゃないと切り拓いて行けない」と言われたのは、その後も僕の中でずっと残っていて。結局断ることはできませんでしたが、「戻ってくるときに制作にしてください」ということだけを伝えたんです。そしたら、10ヶ月で東京に戻れることになり、しかも希望通り制作に異動させてもらえました。
―10ヶ月! 早いですね。大阪での宣伝のお仕事はどうだったんですか?
今村:関西は東京に比べるとマーケットが小さいので、お店とメディアの連動が密接。たとえばラジオでパワープレイのオンエアが流れると、その翌日には必ずお店にパワープレイのコーナーがあるんです。明らかにCDが売れている様子が細かく見えて、音楽ビジネスの仕組みを知ることができました。近畿から中四国まで担当していましたけど、地方に行くほどダイレクトな反応が面白かったですね。両親同様、会社からこのようなレールを敷かれたことで、自分だけでは発想出来ない様々な経験をできました。この経験が間違いなく今の自分にとっての大きな糧になっています。
―それでも宣伝を続けようとは思わなかったんですか?
今村:はい(笑)。やっぱり制作に憧れがありましたし、こういった経験をさせて貰ったことで、より宣伝や営業のプランまで考えられる制作ディレクターになろうと思っていました。
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- フジファブリックのメジャーデビューに掛けた想い
フジファブリックのメジャーデビューに掛けた想い
—担当するアーティストはどのように決まっていくんですか?
今村:大きく分けて2つです。自らアプローチしてそのままディレクターとして担当するケース。もう一つは誰かの紹介から担当を受けるケース。どちらも素晴らしいことなのですが、僕は異動した当初、断ることが仕事だと思っていたこともあって、自分にリンクしないアーティストの担当は全部断っていたんですよね(笑)。
—すごいですね。断るのも勇気がいる行動です。
今村:生意気ながら、自分の道は自分で作らなきゃという覚悟もあったので。そんなときに、たまたま新人発掘の担当に教えてもらってフジファブリックを知ったんです。僕は彼らの音源にすごく惹かれて、翌日には会いに行ってました。
—すぐに打ち解けたんですか?
今村:他に担当アーティストもいなかったし、仕事が暇だった僕は、とにかく彼らと毎日一緒にいました。仲良くなっていくと他のレーベルの人たちが声を掛けにくるときも、メンバーに混ざって僕が一緒にいるような感じで(笑)。地方でライブをするときには僕が運転して一緒に行ったりもしました。
—自然な流れで関係が深まっていったんですね。
今村:彼らの故郷である山梨にも行って、富士山の見える景色や、昭和なスナックが残る通りを見たり、楽曲の根底にあるものをできるだけ体感しようと思っていました。同棲してみて結婚するみたいに、何かの作業を共にする中で合うか合わないかは判断できると思うんです。フジファブリックの場合は、幸いなことにそれがうまく転がっていって、結果的にメジャーデビューの話を進められました。僕はアーティストに一番愛情のある人、つまり一番のファンがそばにいた方がいいと思っているんです。たまに、「どうしてこのアーティストはこんな風になってしまったんだろう」と思うことってありませんか?
—突然の路線変更に、戸惑うことも確かにあります。
今村:そういう時、一番のファンだったら絶対に文句を言うだろうし、アーティストも自分たちのことを客観的に見ることができると思うんです。リスナーに発信する前に、一番のファンに意見を聞けるというのはいい関係だと思っていて。僕は彼らが何十年と活動していきたいならば、それを支えていきたいですし、そのためには厳しいことだって言います。いい音楽であれば何世代にも渡って受け継がれていくので、そうやって続いていくものをアーティストと一緒に作っていきたい。そういう信念でフジファブリックに関われたのは大きかったです。
—では、レーベル移籍はかなりショックだったのでは……?
今村:担当しようと決める時って、その人達の人生に片足をつっこむ覚悟で契約するんですよね。フジファブリックだけではなく、どのアーティストであっても、担当がこの気持ちを持って関わっていればショックに変わりはありません。きっと、これはアーティストにとっても同じこと。環境を変えながらでも常に新しいものを作って行かなければならないですし。ただ、関わり方は変わってもファンなので(笑)、応援したい気持ちは変わりませんし、今でもライブに遊びに行かせて貰ってます。
Base Ball Bearが駆け上がったブレイクの階段
—現在担当しているBase Ball Bearとはどのように出会ったのですか?
今村:たまたまフジファブリックのときと同じ新人発掘の担当が、Base Ball Bearを紹介してくれて。当時の彼らのライブを観に行っても、全然お客さんがいない状態で、何回観に行っても20人ぐらいで。だけど、それって新しいことをやっているから、それをお客さんが理解できていないだけなんじゃないかと思っていました。この業界では人と違うものでしか1位にはなれないと思っていたので、むしろ自信はありました。
—彼らとはどうやって関係を深めていったんですか?
今村:『HIGH COLOR TIMES』というアルバムからレコーディングに遊びに行くようになって、実際にどうやっているのかを見るようになりました。メジャーでリリースするにはどの曲がいいかな、という想像をしながら。デモ音源にあった、「ELECTRIC SUMMER」という曲は絶対に多くの人に響くと思ったんですが、メジャーデビューの最初の作品がこれでいいのかという疑問がずっと残っていたんです。ディレクターそれぞれの考え方がありますけど、メジャーの1st作品って、そのアーティストがずっと背負っていかなければいけない曲じゃないですか。
—なるほど。
今村:「ELECTRIC SUMMER」は、ライブにお客さんが少ない中でも、みんなが共感して盛り上がれる曲だなとは思ったけど、バンドそのものを体現しているとは思えなかったんです。そこで「これがBase Ball Bearだ!」と言える曲を作ってほしいというリクエストから出来た曲がメジャーデビュー曲の「GIRL FRIEND」なんです。その次に、彼らが上る階段を見据えて「ELECTRIC SUMMER」をリリースしました。Base Ball Bearというバンドを打ち出した後に、キャッチーな楽曲で駆け上がっていく。その後に控えている夏フェスやアルバム発売までの盛り上がりも、すごくリアルに想像できたんです。
—まさに、制作のディレクターらしいお仕事ぶりですね! では最後に、突然大きな話しになっちゃいますが、これからの音楽業界には、どんなビジョンを描いていますか?
今村:残る音楽を作りたい。以前ほどCDが売れなくなってきているのは確かだけど、売れる売れないはいつの時代もあると思うんです。まだ誰も聴いたことのない音楽の欠片がスタジオで生まれて、それに心を動かされる。それを半年、1年後に何万人もの人たちが共有して、その人たちの人生の一部になる瞬間が来るわけじゃないですか。30年経っても50年経ってもその当時を思い出す。そのくらいの力を音楽は持っているので、そのつもりでアーティストとも楽曲とも向き合っていきたいですね。
—個々のアーティストと向き合いながら、今後も新しい才能をどんどん発掘していくのでしょうか?
今村:そうですね。今もBase Ball Bear、9mm Parabellum Bullet、The SALOVERSを担当しながら、ザ・チャレンジという新人を来春デビューさせます。尊敬する上司からはずっと、「歌は世につれ、世は歌につれるほど甘いものじゃない」と言われていて。時代とか世の中が変わるからこそ、それに合った新しい音楽もどんどん生まれて行くと思うんです。アーティストから溢れる変わらぬ想いと変わって行く世の中をどこでどう繋げるのか。変わって行く世の中が敷かれたレールだとすれば、埋もれず残り続ける音楽であるためにはどこに新しい要素が必要なのか。小さい頃からずっと考え続けた少しだけ違うこと、を相も変わらずやり続けられたらなって思います(笑)。