好きなジャンルで食べていくには? 書評家・ライター豊崎由美の半生から学ぶ
- 2020/10/28
- SERIES
- 取材・文:辻本力
- 編集・撮影:𠮷田薫(CINRA)
Profile
豊崎由美
愛知県出身。フリーライター・書評家。『週刊新潮』『婦人公論』などで、書評を多数連載している。『ガタスタ屋の矜持』(本の雑誌社)、『そんなに読んで、どうするの?』(アスペクト)、大森望氏との共著『文学賞メッタ斬り!』シリーズ(パルコ)など著書も多数。偶数月には海外文学を広めるイベント「読んでいいとも!ガイブンの輪」も開催している。
薄給&激務の編プロ時代が、「書く」修行になった
豊崎:月並みな話ですが、本が大好きで、出版に関わる仕事をしたかったんですけど、「飲む・打つ・買う」の「買う」だけやってないみたいな、まあふざけた大学生活を送ってしまったために、私に入れる出版社なんてなかったんですよね。それで卒業後は、編集プロダクションで数年間働いていました。
最初に入った編プロは、思い返してもヒドイところで、社長が書いたくっだらない文章を載せた業界新聞みたいなのに、チラシとか割引券とかを挟んで配布するビジネスをやってて。私に与えられたのは、50ccのバイクに乗ってそれを関係先に配る仕事。配達中に東銀座のマガジンハウスのビルとかを眺めては、「自分もいつか、こんなところで仕事できたらなぁ」なんて思っていました。
次に入った編プロは激務で薄給だったものの、仕事仲間にも恵まれ、ここが「書く」仕事の最初の修行の場となったと振り返る。
豊崎:とにかく人手が足りなかったので、編集からライティング、インタビューもやれば、ほかのライターが書いた文章に直しを入れるようなことまで、もう何でもやっていました。でも、駆け出しの若造の書く記事なんて、やっぱり下手くそじゃないですか。そこはすごくいい編プロで、「ここは、こういうふうにやってごらん」と新人の私につきっ切りで仕事を教えてくれました。
ライターとして育ててもらったこの場所には「感謝しかない」と語る豊崎さんだが、薄給のため生活はカツカツ、お金のやりくりには相当苦労したという。
豊崎:80年代の中頃で「これからバブルが来る!」くらいのタイミングだったんですけど、私には本当にお金がなかったですね。だから、週末の休みに副業で、ポルノ雑誌の仕事をやって糊口をしのいでいました。1人で1冊の3分の2くらいを書いてたんだから、われながらよくやってましたよ。
しかも、その手の雑誌はギャラも安いので月3、4万円くらいにしかならない。でも、それでもやらないと生活できなかった。12字×1行、14字×3行、15字×1行……みたいな、めちゃくちゃなレイアウトにぴたりと合うように文章を書いたり、「性のお悩み相談室」みたいなQ&Aコーナーでは、自分で悩みを考えて自分で答えるという自作自演をやったり、ありとあらゆることをやりました。でも、このときの修行のような経験は、後にいろいろな媒体で文章を書くうえですごく役に立った。自分の根幹を成す、大切な下積み時代です。
来た仕事は断らない。30代までの努力で花開いた40代
そんなノンストップな仕事生活を送るなか、最初の転機となったのは、編プロ時代に担当した美術誌の特別号だったという。この原稿依頼を通して、文学、映画などを中心とした評論やエッセイで知られる川本三郎さんの知遇を得ることになる。
豊崎:有名な作家さんとか評論家の方たちに原稿依頼できる企画だったので、ここぞとばかりに自分が会いたい人にお願いしたんです(笑)。そのうちの一人が川本さんでした。
最初にお手紙を差し上げたら、「最近はもう、あなたみたいな人は少ない。いい手紙でした」とおっしゃってくれて、安い原稿料だったんですが「書きましょう」って。その仕事以降も、すごく可愛がってくださって、私が「演劇が好きだけど、お金もなくてなかなか行けない」みたいな話をしたら、その頃劇評も書いていた川本さんは「招待状が来たから、一緒に行こう」と、よく劇場に連れて行ってくださいました。
これはあとから知ったことですけど、演劇の招待って、本人のみ有効なんですよね。同伴者は、お金払わなきゃいけないの。だから川本さん、じつは私の分も払ってくれていたんです。で、帰りはおでん屋とかに飲みに行って、編集者の人を紹介してくださったりして。
この恩人との出会いが、豊崎さんの、その後のフリーライターとしての道を開くことになる。
豊崎:川本さんの紹介で、マガジンハウスの情報誌『ダカーポ』の映画紹介欄を任せてもらえることになって。無署名記事でしたけど、本格的にものを書いてきたわけではない自分にとっては、ものすごく大きな経験でした。それ以降、担当だった青木明節さんを介してどんどんマガジンハウスの仕事が来るようになった。
個人で受けているとはいえ、勝手に懐に入れるのがイヤだったので、振り込みは編プロにしてもらい、いわば公の仕事としてやっていたんですけど、あるとき計算してみたら書く仕事だけで月50万円を超えていて。それでフリーでやっていく自信をつけた私は、独立することを決意しました。
フリーランスになったのは1987年、26歳のとき。人々の消費が拡大し、雑誌に勢いのあった時代である。新創刊する雑誌も後を絶たず、新しい書き手が求められていた。筆が立つのを見込まれ、豊崎さんのもとには次々とライター仕事が舞い込んだ。コラムも書けば座談会のまとめもやる、ルポも書けば女性誌初の競馬予想連載を担当するといった具合に、来る仕事は一切断らなかったという。
豊崎:40歳くらいになるまで、どんなにいっぱいいっぱいでも、仕事を断ったことはありませんでした。断ったら、もう次は頼まれないんじゃないか、という恐怖がありましたからね。本当に働いてばかりだったし、ものすごく努力もした。30歳になるまで海外旅行したこともなかったし、テレビを見ててもCMになると「あの原稿の出だし、どうしようかな」と、四六時中、仕事のことばかり考えていました。それが幸せなことだったのかはわかりませんけど、30代までにあれだけやったからこそ、ライターとして花開いた40代があったと思っています。
「本当は何がしたいの?」転機となった雑誌『CREA』での書評連載
現在、「書評家」として、主に文学作品の面白さを紹介する仕事をメインとしている豊崎さんだが、そのきっかけは、1989年に創刊された文藝春秋の女性誌『CREA』だった。
豊崎:「読み物CREA時代」と言われた初期に、この雑誌で仕事をできたのは、私にとって本当に大きな経験でした。当時の『CREA』は、年2回必ず文学特集と映画特集をやっていて、女性誌と謳ってはいるものの、内実ほとんどサブカル雑誌だったんですよね。1995年に芥川賞を受賞した保坂和志さんと、同年に三島由紀夫賞を受賞した山本昌代さんに密着取材をする企画をやらせてもらったのはいい思い出です。
最盛期の最中、がむしゃらに仕事をし続けた。そして、ある人との出会いが人生を変えたという。
豊崎:私が「書評家」を名乗るきっかけをくれたのは、当時『CREA』で編集長をしていた、後に文藝春秋の社長にもなる平尾隆弘さんです。一緒にタクシーに乗っていたとき、「豊崎さんは何でもやってくれるけど、本当は何がしたいの?」と聞いてくださったんですよね。お酒飲んでいい気持ちになっていたので、すごく気軽な気持ちで「昔から本が大好きだから、なんか本の紹介とかできたら嬉しいかもしれないですねー」って答えたんですよ。
そしたら2、3か月後に『CREA』誌上に「豊崎由美の何を読もうか」という本を紹介するページを用意してくれて……。これを皮切りに、本を紹介する書評家としての仕事が徐々に増えていき、「豊崎由美って誰?」と、出版業界内で注目してもらえるようになったんです。
いまでこそ女性のライターが本の紹介記事を書くことは普通だが、当時はまだ未舗装状態で、とても珍しい存在だったという。
豊崎:雑誌に書評記事を書くのは、丸谷才一さんのような作家や、文芸評論家がほとんどでした。女性では、温水ゆかりさんという先駆者がいましたが、本当に彼女くらい。そこに私が参入し、以降どんどん書き手が増えていき現在に至ります。
この連載では、紹介する3冊のうち、必ず2冊くらいを海外文学に充てていたのですが、これも私に幸いしたと思っています。エンターテイメント小説を紹介する人は、それこそ有象無象と大勢いるけれど、海外文学、海外のノンジャンル小説を紹介する書き手は当時ほとんどいなかった。ニッチな書評家としてスタートしたことで、結果的にパイの取り合いに巻き込まれず、独自のカラーが出せたという面はあったでしょうね。
雑誌バブルからの出版不況。書き手の明暗を分けたものとは?
タクシー券がバンバン切られ、取材旅行に行けば拘束料として日当が出た——豊崎さんから聞く80、90年代の雑誌バブル期のエピソードの数々は、出版不況、インターネット以降の雑誌の凋落しか知らない世代からすると、まるで小説やドラマの世界のようで眩しい。「私はいい時代に、いい人たちに出会えたからいまがある」と自身の幸運を認めつつも、バブル景気の恩恵という意味では、当時複雑な思いもあったそうだ。
豊崎:バブルで雑誌がいっぱいできて、ライターもたくさん必要とされていた時代です。部数が売れるから、1つの編集部にいまより2、3倍の人がいました。そういう余裕があったからこそ、「編集者がライターを育てる」という文化も育った。そういう時代にペーペーのライターをやっていられたことは、すごく運がよかったと思います。
豊崎:ただ私は、女性誌の花形とされる「コスメ・グルメ・旅行」といったジャンルはぜんぜんやらせてもらえなかった。あと、企業とのタイアップ記事も。原稿料がダントツにいいから、やっぱり当時は「いいなぁ」と、同年代のライターたちを羨ましく見ていました。
歯に衣着せぬ、正直すぎる書評が売りの豊崎さんがタイアップ記事? と思い聞いてみると、やはり当時も、人に愚痴るとそんな反応が返ってきたそうだ。
豊崎:親しくなった編集者の人と飲んでるときに、「誰も私にタイアップの仕事くれないんだよね」ってボヤいたことがあるんです。そしたら、その人急に真顔になって「なんでもクライアントの言うこと聞かなきゃダメなんだよ。できないでしょ?」と言われて、たしかにな、と(苦笑)。
でも、逆に言うとね、すごく大事にされていたんだと思います。というのも皮肉なもので、同世代でタイアップばかりやってたライターで、いまでも生き残っている人は知る限り誰もいないんですよ。そのとき、私より収入が倍くらいあって、何倍も有名だった人たちが、バブルが終わって雑誌が減ると同時にことごとく消えていった。私は特に「おいしい」原稿料とかもなければ、贅沢な暮らしにも縁がありませんでしたが、直接的な恩恵を受けなかった代わりに、極端な落差も経験せずに済んだ。だから、あの恵まれた時期は、雑誌編集部の活気みたいなもの知っている、という楽しい思い出として私のなかで生き続けています。
自分の好きなものを守るために。「応援する」という仕事の在り方
90年代以降も、書評の仕事は増やしつつも、スポーツ誌『Number』(文藝春秋)でやりたい放題のスポーツ観戦コラム「それ行けトヨザキ!!」、『週刊文春』(同)では三面記事のその後を追いかける「三面記事探検隊」などを連載。多岐に渡るジャンルで活躍を続けた。そんな豊崎さんが、「書評家」としてその存在を広く知られるようになったきっかけは、やはり翻訳家・書評家の大森望さんとの共著「文学賞メッタ斬り!」シリーズ(これまで5冊を上梓)だろう。
豊崎:私はコアな本好きの人にしか知られていませんでしたけど、2003年に「メッタ斬り!」をやるようになってから、「ちょっと本が好き」くらいの人たちにも知られるようになった気がします。初めての書評集『そんなに読んで、どうするの?』(アスペクト/ 2005年)を出せたのも、あれ以降ですしね。当時もいまも、書評を主な仕事にしている人の書評集って、ほとんど出版されることがありません。良い書き手はいっぱいいるのに、本当にもったいないことです。
雑誌の数、本を紹介するページが減少傾向にある昨今。活字メディアに発表された書評を再録するアーカイブサイト「ALL REVIEWS」など、新たな試みを模索する動きもあるが、日本の書評文化の先行きは楽観視できないという。今年59歳になる豊崎さんも「将来に不安しかない」と溜息をつく。
とはいえ、ただ指をくわえてこの状況を見ているわけではない。海外文学についてゲストと語り合うイベントや、自らのトークイベントを開催。さらには「ツイッター文学賞」の立ち上げや、自ら書店に立ち、お客に直接本を薦めて叩き売るユニークな試みも行っている。この積極性、フットワークの軽さは、後続の若いライターたちを刺激してやまない。
豊崎:素晴らしいものなのに、放っておくと消えてしまいそうな弱いジャンルを見ると、やっぱり応援したくなるんですよね。いまの自分に余力があるなら、必ずそうします。私が積極的に紹介している海外文学も同じで、単純に自分が好きだということが一番大きいけれど、せっかくの面白いものが経済の状況によっては「読者もそんなに多くないし」みたいに判断されて、出版されなくなってしまうことが残念でならないんです。1冊でも多くの人に買ってもらえるように応援することが、結果的に自分の好きなジャンルを守り助けることになるなら、そりゃやらなきゃ嘘でしょう。
「見るまえに跳べ!」仕事は好き嫌いせずに挑んでみる
文章の腕と尽きせぬ好奇心、そして本への愛を武器に、浮きつ沈みつの出版業界を身一つで渡り歩いてきたフリーランスの大ベテランは、この30余年の「仕事」を振り返ったいま、何を思うのだろうか。
豊崎:大江健三郎の小説のタイトルじゃないですけど、まさに『見るまえに跳べ』の精神ですよ。私は若いときに失うものなんてないと思ってたから、とにかく目の前に来たものに飛びつき続けてきました。そして、その結果、いまの自分がある。「好きな仕事」を選んだ、というよりも、いろいろやっているなかで、自然に「あ、いまやっている仕事は、自分がやりたかったことだな」と思えるようになっていった。ある意味、仕事をあまり選ばなかったことがよかったんだと思います。
というのも、この仕事で「あれ嫌」「これ嫌」と言う人が出世したのを見たことないから。やっぱり、やってみなきゃわからないこともあるんですよ。少なくとも私は、ひたすら来た依頼を断らずに続けてきたなかで得た知識に、文章を書くときや本を読むときにわが身を助けもらうという経験を何度もしてきましたからね。もちろん、精神を病むような本当に辛い仕事は、ほっぽり出してしまえばいいですけど。
また、修羅場をくぐってきたからこそできる、後進への「現実的な」アドバイスも。
豊崎:フリーランスなら、仕事はいろいろな出版社としておいたほうがいいと思います。私がなんとかライターとして、書評家としてやってこれたのは、来る仕事は拒まず、いろいろなところと仕事をしてきたから。それにいまは雑誌不況だから、書いている雑誌が潰れることだって珍しいことじゃありませんからね。仕事先はたくさんあるに越したことない。
最後に、好きなことを仕事にする・しないで悩んでいる読者に向けてアドバイスをお願いしたところ、じつに豊崎さんらしいエールを送ってくれた。
豊崎:とまあ、こんな私でも30年以上やってこられたんだから、皆さん臆せずどんどん挑戦すればいいんですよ。まあ、どんなに好きなことでも、仕事になった途端「嫌だなー」「面倒だなー」ってなったりするものなんですけどね。そりゃ締切りに追われるよりも、家でのんびりゲームとかしてたほうが楽しいに決まってます。
なんだけど、仕事で上手くいったときに得られる達成感・高揚感は、遊びやほかの何かでは得られないもの。自分にとって会心の書評になったなと思えるものが書けたときって、「どんとこーい! いまならなんでもできる!」みたいな万能感でいっぱいになって、それはもうえも言われぬ最高の気分なんですよ。まあ、それも3、4時間で終わるんですけどね(笑)。だから私は、また新たに「書くぞ」という気持ちになるのかもしれないなあ。