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会社にいたら「海に行けない」。穂村弘が17年勤めた会社をやめた理由

短歌、エッセイをはじめ、評論、翻訳など多方面で活躍されている歌人の穂村弘さん。口語短歌の嚆矢として1980年代後半にデビューして以来、第一線で活躍を続けてきた。しかし、専業となったのは2000年代に入ってからと、意外と遅め。17年間の長きに渡り、歌人と会社員の二足の草鞋生活を送ってきた。

「その仕事、やめる?やめない?」第9回は、そんな穂村さんに会社員時代の葛藤エピソード、ニッチな世界で生きていくうえでの極意、仕事の哲学までたっぷりとお話をうかがった。
  • 取材・文:辻本力
  • 撮影・編集:𠮷田薫(CINRA)

Profile

穂村弘

歌人。1962年札幌市生まれ。1985年より短歌の創作を始める。2008年『短歌の友人』で伊藤整文学賞、2017年『鳥肌が』で講談社エッセイ賞、2018年『水中翼船炎上中』で若山牧水賞を受賞。歌集『シンジケート』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』『ラインマーカーズ』、詩集『求愛瞳孔反射』、エッセイ集『世界音痴』『にょっ記』『野良猫を尊敬した日』など、近著に『図書館の外は嵐』がある。

働きたくない。「一生、日給5,000円」でもいいと思っていた

大学在学中に作歌を開始し、1986年に応募した連作「シンジケート」で第32回角川短歌賞次席という好成績を残した穂村さん。しかし、卒業後は一般企業に就職、以来二足の草鞋生活を長らく続けることになる。由緒正しい賞でそれなりの評価を得たのだから、「最初から専業で」という考えはなかったのだろうか。

穂村:親が会社員でしたし、親戚にも自営業やフリーで働いている人がいなかったので、「働く=勤め人」みたいなイメージしかなかったんですよね。とはいえ、当時は「ずっと学生をやっていたい」みたいな、いわゆるモラトリアムタイプだったので、とにかく社会に出るのが怖かった。「1万歩散歩して喫茶店で読書だけしていれば1日5,000円もらえる。でも、その金額は一生上がることはない」という契約を悪魔に持ちかけられたら、自分は受けてしまうだろうなと思ったことを覚えています。

働きたくない。でも、働かなければ食っていけない。就職活動が苦痛でしかなかった穂村さんは、妥協案として、ニッチな方向を狙うことにする。

穂村:マイナーな業界誌の編集なんかどうだろう、と思って、本当にあるかはわかりませんが、例えば「月刊下駄」みたいな雑誌を探しては履歴書を送っていました。でも、面接でもうダメなんですよね。そういうところに行くと、「下駄が好きで好きでしょうがない」みたいな本気の人が必ずいる。そんな熱意のある相手に、ぼくのような逃げ道を探してきた人間が勝てるはずはありません。で、なんとなく潰れなさそうだし、週休2日だからいいかなと思ってガス会社を受けてみたりもしたのですが、面接の部屋に入って座った途端「君は、ウチが潰れなさそうで週休2日だから受けにきたんじゃないの」と言われてしまって。働く意思のない人間は、一瞬で見透かされてしまうんですよね。後年、自分も会社で面接担当をやることになって、当時のぼくみたいな若者を不採用にした経験があるからよくわかります(苦笑)。

辞表を胸ポケットに潜ませる日々。「もの書きになりたい」が心の拠りどころだった

時代はバブル景気直前で、まさに売り手市場のタイミングだったが、就職活動は惨敗。切羽詰まって、当時ほとんど無試験で入れたというIT企業に就職し、システムエンジニアの道を選ぶ。

穂村:入れたはいいのですが、続けるのは大変でした。最初の数年は何とかなりましたが、技術がアップデートされる速度がめちゃくちゃ早い世界なので、とても優秀な人でも35歳までに管理職にならなければ現場では通用しないようなところで。ぼくも早々についていけなくなってしまった。毎日夜中までやってもぜんぜん終わらない。最後のほうは本当にひどくて、できることなら仕事ができる同僚にお金をあげて自分の仕事をやってもらいたい、なんてことを考える始末。さすがに言い出せませんでしたが、仕事を手伝ってもらう代わりに残業の夜食を毎日奢っていたので、ほぼ現物支給でそれをやっていた格好ですね。

また、実家住まいだったから出勤も大変で、電車で片道1時間45分、往復で3時間30分以上。会社のそばに家を借りろよ、って話なんですが、とにかく環境を変える勇気やスキルがなさすぎて、会社をやめて結婚するまではパラサイトシングル状態でした。

もっとも、残業も多くハードな仕事ではあったが、一般の日本企業に比べると圧倒的に会社の雰囲気はユルく、居心地は良かったという。

穂村:部長のことを「マコトさん」とか下の名前で呼んでもOKでしたし、自分のデスクにおもちゃを並べている人もいました。いまはそういうIT系の企業とかもありますけど、当時は珍しかった。会社の雰囲気や、そこで働いている人たちのことは嫌いじゃなかったけど、会社に行くのがイヤでイヤで、やめたくて仕方がありませんでした。実際、辞表を持って部長のところに行きかけたことも、数十回ありましたからね。でも、歌人としての収入は微々たるもので、10首つくって900円とかの世界だったから「どうやって食っていくんだ?」ということを考えると、実際に切り出すことはできませんでした。

そんな時代に心拠りどころになっていたのは、やはり「もの書きになりたい」というイメージでした。つまり、自分もいつか文章だけで食べていけるようになるんだ、という気持ちですね。ただ、それは心の支えであると同時に、現実を突きつけてくるものでもありました。自分より年下の作家たちが、次々とデビューして精力的に作品を発表している。

一方のぼくは、まだ一冊の本も出ていない。若い頃って、過去の若き天才たちと自分を比較したりしますけど、どんどん年齢が彼らを上回っていってしまう。だから、「俺にもまだ可能性はあるぞ!」と安心するために、逆に遅咲きの偉人を探したりするようになって。40代でデビューした松本清張がいるじゃないか、とか、伊能忠敬が日本地図をつくり始めたのは50代だからまだまだ大丈夫、とかね(笑)。

システムエンジニアから事務職へ。でも、「やめたい」気持ちは変わらず……

もの書きとしての自立の夢を胸に、ギリギリのところで踏ん張り続けたものの、勤め始めて7年目に限界のときが訪れる。しかし、躊躇し続けてきた辞表をついに提出した穂村さんにかけられたのは、意外な言葉だった。

穂村:部長のところに行って、正直に「能力的にムリなんでやめます」と言いました。そしたら「やめて次のアテはあるの?」と言うので、「ありません」と答えたら「じゃあ、事務系の部署に空きがないか聞いてみるよ」と。本当に親切な話ですよね。それで結局、総務部に移動させてもらえることになって。

朝から終電まで働く過酷なシステムエンジニア職から、事務職に移動になったことで、肉体的にも精神的にも解放された穂村さんだったが、「仕事をやめたい」という気持ちはくすぶり続けていたという。

穂村:仕事ができないのは相変わらずでしたからね。商談帰りの道端で、お客さんが乗るタクシーを社長に止めさせちゃったりとか。そういうことは総務部員である自分の仕事なんですけど、まったくそこに思い至らない。書類に押すハンコがちょっともかすれていたらダメとか、そういう会社的な常識が理解できなくて怖かったです。仮に説明されたとしてもピンとこないから、結局状況が変われば似たようなミスを犯し続けることになる。

穂村:だから、というわけではないですけど、とにかく働くことを諦めました。まわりは夜中まで忙しそうにしていたんですが、ぼくは定時で帰って家で原稿を書く生活。新人の子に「本当に働きませんよね」と言われたことをよく覚えています(笑)。「会社やめたい」という気持ちは変わりませんでしたが、事務職になったことで、「仕事ができなくて辛いからやめたい」から「物書きとして食べていきたいからやめたい」という、「やめたい」の質的な変化はありました。会社では最低限の仕事しかしないダメ社員でしたが、幸い書く仕事のほうは少しずつ増えてきていたので。

人間ドッグで緑内障が発覚。人生の恐怖ランキングが入れ替わった

しかし事務職に移ってから、専業のもの書きになるまで、さらに10年もの時間を要すこととなる。歌人やエッセイストとして評価が高まるなか、それでも独立を躊躇した理由は何だったのだろうか。

穂村:結局、どの程度もの書きとしての仕事が増えれば食べていけるのかはわからないんですよ。人に相談しても「フリーになるには、会社員時代の収入の3倍はないとやっていけないぞ」みたいな決まり文句しか聞こえてこない。そんなのあとから考えると完全にデマなんだけど、そのときはやっぱりビビっちゃいましたしね。

あと、ある年齢を超えると、ここで会社をやめたらもう普通の企業での再就職は叶わない、みたいな現実も突きつけられる。だから、しょっちゅう求人広告を見ては、自分の年齢でもまだ募集している職種を探して「ああ、まだ行くところがあるから大丈夫だ」と胸を撫で下ろしたりしていました。まあ、そういう可能性も年々減っていくし、そもそもいまいる会社より優しくて、恵まれた働き方ができる場所を見つけることなんて無理だということも内心ではわかっていたんですけどね。

会社をやめるきっかけは、意外なかたちで訪れた。会社の人間ドッグで緑内障であることが判明。それが背中を押した。

穂村:緑内障って、不治の病なんですよね。死にこそしないものの、失明の可能性もある。お医者さんに視野のグラフの黒くなっている部分を見せられて、「あなたは、すでにここが見えていません」と言われました。しかも、その見えない部分はどんどん広がっていく、と。一種の余命宣告ですよね。人間には等しく命の砂時計があって、この瞬間も残された時間は刻一刻と短くなっている。そして、そのことを頭ではわかっているのだけど、可視化されていないからいちいち気に留めない。でも、視野のグラフというかたちで具体的に見せられると、いやがおうにも自分の残り時間を意識させられ、怖くなってしまうんでしょうね。

本がベストセラーになるとか、賞を獲るとか、その先の仕事やお金の心配がなくなった状態で専業もの書きになるのが理想だったんですけど、逆に恐怖ランキングの急激な変動によってやめる踏ん切りがついてしまった格好です。こういうときの反応にも個人差があって、将来が不安だからむしろ会社に残ったほうがいいだろう、というふうに考える人もいると思います。でも、ぼくはそういう発想ができなかった。いままでの自分は、時間の使い方を、優位順位を完全に間違えていたな、と思うようになった。お金はなくとも、目さえ見えていれば、ものすごく幸福だし幸運なんだ、って。

あと20年なら何とかなる。「やめる」を決意した「人はすぐ忘れる」という考え方

自身の病気という、のっぴきならない事態以外にも、さまざまな心境の変化が「やめる」を後押ししたという。

穂村:その頃は、歌人や文筆の仕事も増えて、もの書きの収入が会社員のそれとほぼ同じくらいにまでなってはいました。でも、フリーの宿命として、来年以降も続く保証はない。ただ、40代になって、そういったことが以前より不安じゃなくなっていることに気づいたんです。20代でフリーになるということは、それから先40年くらいは自分一人でどうにかして食べていかなければならない。でも、40代なら残りは十数年じゃないですか。この差は大きい。40年は不安だけど、十数年ならなんとかなるんじゃないかって。

穂村:それに、会社のなかでサボっている人と頑張っている人との評価の差はめちゃ大きいけど、いざその人がやめてしまったら、いずれにしろ、最初からいなかったような扱いになるんですよ。いまいる人が、その会社のすべてだから、やめて3か月もしたらみんな、ぼくのことなんて忘れてしまうに違いない。そのくらいのもんだと思えたことで、気が楽になった。そして、実際そのとおりになりましたしね(笑)。

こうして、「やめたい」と思い続けた17年間の会社員生活に幕が下りた。42歳のときだった。

穂村:「ずっと寝ていたい」という願いも叶ったし、もう夢のようでしたね。ただ、会社は最後まで優しくて、そのことには本当に感謝してます。緑内障でやめます、と伝えたときも「一人で食べられるの?」と言われたので、正直に「わからないです」と言ったら、社長が「じゃあ、月水金だけ来たら?」とか言ってくれて(笑)。全然働かない社員にそこまで言ってくれる懐の深さたるや! という感じです。やめてずいぶん経ちますけど、いまだに週3で会社に行っている「もう一人の自分」の夢を見ることがあります。たぶん、よほど迷ったんでしょうね。目の病気のことがなければ、事務職に移してもらったときのように提案に甘えていたかもしれない。ただそのときは、目が見えているあいだに物書きとして、歌人としてできることをやっておこう、という焦りの気持ちが勝りました。

結局、海には行けなかったーー。「生きのびる」と「生きる」の狭間で

繰り返し語られているように、穂村さんは会社をやめて本当に良かったのだろう。しかし、読者的な視点から見ると、そうした勤め人時代があったからこそ生まれた作品も少なくないように思える。例えば、短歌の入門書『はじめての短歌』(河出文庫)では、会社などをはじめとする「社会」の側が要請する言葉を「生きのびる言葉」、どこまでも個人的で、それゆえに切実さを伴う言葉を「生きる言葉」と表現し、「詩(=生きる言葉)」というものの特性を鮮やかに浮かび上がらせた。こうした作品は、会社員経験があったからこそ書き得たのではないだろうか。

穂村:詩の言葉というのは、誰にでも間違いなく意味が伝わるような、精度と効率を目的とした社会のツールとしての言葉とは相反するものなんですよね。社会的に価値があるとされている「お金」とか「地位」みたいなものとは対極にある、一見するとガラクタのようだけど「その人」にとってはものすごく価値があるもの、みたいな性質があります。そしてぼくたちは、社会生活を送るうえで、そうした詩的なものから遠ざかるような状態を強要される。そうしないと、会社でちゃんとやっていけないし、お金も稼げないし、まともな社会生活を送れないから。それはつまり、「生きる実感」から遠ざかることでもあるんですよね。そこに抗うのが、短歌――すなわち「詩の言葉」なわけです。

穂村:ある本にも書きましたが、通勤電車で会社のある駅で降りず、そのまま乗り続けていたら、ぼくは海に行くこともできた。天気の良い日に、会社をサボって美しい海を見に行くーーたった1回でもそれを実行に移していれば、その日は一生忘れない1日になったはず。でも、実際には毎日毎日、会社のある駅で降り続けて、その先にある海には一度も行かなかった。当然ながら、会社という「生きのびる」側の強制力が、無断欠勤を許さなかったから。社会的には当たり前なんだけど、死の床では後悔するかもしれない。

こういうことにはいろいろなバリエーションがあります。つき合う相手と結婚する相手は違う、とかね。結婚する相手はともに「生きのびる」ために、社会的にちゃんとしていてお給料もいい人がいい。でも、一緒にいて生の実感を得られるのは、生活は不安定だけど面白い相手、みたいな。そっちを選んだほうが、一緒にいる自分の生の輝きも強化されるということはわかっている。でも人はそういうとき、往々にして前者を選んでしまう。生きのびるために。本当は、生きのびるために優位で、かつ生の実感も得られる相手と一緒になるのが理想のはずだけど、みんなそれを無意識のうちに「どちらか」と分けて考えてしまう。これは仕事に関しても同じですよね。「やりたいこと」と「(食うための)仕事」をつい分けて考えてしまう。そのへんのところに、「働く」ということにまつわる悩みや苦しさの一端があるのではないでしょうか。

とはいえ、「やりたいこと」と「仕事」をイコールにできる人ももちろんいますよね。それに、仕事はイヤでイヤでしょうがなかったけど、振り返ると、会社のほとんどの人はぼくより優しかったし、彼らのほうがずっと大変な局面にいるのに、ミスばっかりのぼくの心配までしてくれた。失敗してはよく叱られていた先輩がいたんだけど、会社をやめるときに「これからは筆一本でがんばってね」と万年筆をくれました。自分の関心のあるフィールドの外側にも、素晴らしい人たちは存在するーーそうした「世界の広さ」を気づかせてくれたという意味でも、会社に感謝しなきゃですね。

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