数々の職業を経て俳優に。竹原芳子がキャリアを手放しても「大丈夫」と言える理由
- 2021/07/19
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お話を伺うのは、俳優の竹原芳子さん。出演映画の『カメラを止めるな!』で存在を知った方も多いのではないでしょうか? じつは竹原さん、俳優としてご活躍される前に、証券会社の営業、派遣社員、裁判所の臨時的任用職員、アマチュア落語家、お笑い芸人……とまったく異なるキャリアをご経験されています。
一般的に異業種への転職は、特に年齢を重ねると「未経験からのスタート」という心理的な不安や、「年収ダウン」などの条件的なデメリットなどが目につき、チャレンジのハードルが高くなりがちです。しかし、竹原さんは、そんな多くの人が抱きがちな恐れをものともせず、大胆に転身。「なぜそんなに変化し続けられるのだろうか?」――そんな疑問を持ってお話を伺うと、「ずっと自分探しをしていた」という返答が。
「自己変革」を繰り返す竹原さんがさまざまな職を経験したからこそ思う、自分らしい道のつくり方とは?
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- イラスト:soremomatayoshi
- 取材・文・編集:光永智子(CINRA)
Profile
竹原芳子
大阪府出身。短大卒業後、金融機関の営業職や、裁判所勤務、アマチュア落語家、吉本総合芸能学院への入所など数々の経験を経て、57歳のときに映画『カメラを止めるな!』で長編映画デビュー。その後も、ドラマ『ルパンの娘』に出演するなど、俳優として活躍の幅を広げている。
13年勤めた証券会社を辞めてから始まった「自分探し」の日々
—57歳で長編映画デビューとのことですが、俳優業をされる前は、まったく違うお仕事を経験されていたと伺いました。
竹原:はい。いろいろあるんですが(笑)、まずは短大卒業後に新卒で入社した証券会社の営業職ですね。業界には13年ほどいました。
—13年ですか。キャリアとしては長い印象ですね。
竹原:そうですね。経験を重ねていましたし、安定的に働けていたと思います。ただ、ふとした瞬間に「このままでいいんかな?」「ほんまは何やりたいんやろう?」という気持ちが湧いてきて。自分には「勤めながら、ほかで自分に合った仕事を探す」というような器用なことができないので、スッパリ退社しました。
—迷いはなかったのでしょうか?
竹原:主任という肩書きもありましたし、周りからはもったいないと言われました。当時は、取得したら「一生証券会社で働ける」と言われていた外務員資格も取ってましたし。でも自分のなかから湧き上がってきた声に素直に従ったという感じです。
—30歳過ぎたあたりですよね。辞めたあとはどうされたんですか?
竹原:派遣会社に登録しました。とにかくたくさんの経験をしたかったので、短期でできる仕事を選んで次から次へと試していましたね。銀行や証券の事務仕事や、薬局の販売促進、宝くじの販売、講演会受付……。クレジット会社の展示会でローンの計算などもしていました。当時「自分探し」という言葉が流行っていたんですが、まさに私も「自分探し」をしている状態でした(笑)。
—「自分探し」で旅に出る人も多かったですよね。竹原さんは数々の職を経験することが「自分探し」だったのですね。結果、何か見つかりましたか?
竹原:いえ、見つかりませんでしたね。もちろんやっていて面白いと思うことや、得意だと感じることはありました。たとえば、薬局で新商品のドリンク剤の試飲会があって、お客さんと接するのは楽しかったです。「これどうですか〜!」なんて呼びかけ、バーっと話して、結構売れましたし。宝くじの販売なども、調子良かったですよ! でも、どの仕事も心の底から満たされてはいなかったですね。
過去の経験に囚われず、自分の「ピンときた」を大切に
—そのあとは、どうされたのですか?
竹原:40歳になったときですね。ある日、職安に行く用事がありまして。たまたま早く着いたんで、待ち時間にボーッとしていたら、目の前に裁判所の求人があるのを発見したんですよ。そのときに、「なかなか裁判所に行く機会ってないし、履歴書出すのも経験になる!」とピンときて、早速受けに行ったんです。で、ご縁あって働くことになりました。
—「受かりたい」ではなく、「裁判所に履歴書を出しにいきたい」という好奇心が応募の動機だったのですね。ネクストキャリアを考えるとき、「過去の経験を活かす」とか「給料アップを目指す」ことを目的に次の仕事を選択する場合が多いと思いますが……。
竹原:え、そうなんですか(笑)。そんな気持ちはまったくなかったですね! そもそも受かるわけないと思っていましたし。実際、私は戦略的に行動するとかできないタイプなんです。単純に興味があるから行動しているだけ。基本、今後の計画は一切立てません。
—先々に「期待する」気持ちがないからこそ、身軽に変化を起こせるのかもしれないですね。「自己改変型」できる人の特徴とも言えそうです。
「織田信長やったら、50歳で死んでいる!」が、吉本入所のきっかけ
—裁判所でのお仕事はいかがでしたか?
竹原:働けたことがうれしかったので、何もかもが目新しかったです。事務の仕事がメインではありましたが、実際に法廷を見たりもしましたし、テレビでしか見たことのない世界をたくさん目の当たりにしました。そのたびに気分が上がっていましたね。ミーハーなんです(笑)。
ただ、50歳になったときにまた転機が訪れまして。というのも、過去に見た大河ドラマで、織田信長が「人間50年」と言って、火のなかで舞っていくシーンがすごく印象に残っていたのですが、それがふと脳裏をかすめたんです。「織田信長やったら、50歳で死んでいる!」と思ったら、「私はこのままでいいのだろうか……?」という気持ちがまたしても湧いてきた。
そんなモヤモヤを抱いていたら、ある日、NSC(吉本総合芸能学院)で生徒募集の案内が出ていたんですよ。過去に吉本への憧れを抱いていた自分の気持ちを思い出して、「やり残したことをもう一回やってみよう」となり、応募しました。
—また新たなチャレンジを……!
竹原:そうなんです。面接では周りが20代の子ばっかりで、どう見ても場違いで、正直えらい戸惑いましたけどね(笑)。でも、面接が終わって、会場ビルの階段を降りている途中で肩をポンポンと叩かれて。「誰やろ?」と思って振り返ったら、知らない男の子が「がんばろうぜ!」って、声かけてくれたんです。それでなんだか気が楽になったのを覚えています。嬉しかったので、その子に元気よく「おー!」なんて返したりして。
—青春ドラマのワンシーンのようなエピソードです。
竹原:いい話でしょ。そういうわけで、晴れて入所することになりました。といっても受けた人はほとんど通っているみたいんなんですが(笑)。
映画『カメ止め』上田監督とのご縁は、「蛾」の役がきっかけ
竹原:吉本時代はね、おもしろいエピソードたくさんありますよ。授業では、ネタのつくり方を教わるとかじゃなくて、いきなりネタ見せから入りますからね。都度いろんなハプニングが起こるし、毎日発見の連続でした。授業終わってからのごはんも、楽しかったです。この歳にして、夜の8時、9時とかに王将に行くわけですよ。若い子の話、全然わからないから、終始「はーん、なにそれ」とか言ってましたけど(笑)。
そのあとは吉本に所属しつつ、R-1グランプリの大会にも出たりしていました。そして、55歳の頃に、役者の勉強をしたいなと思い始めまして。
—また竹原さんのなかで、何かがむくむくと立ち上がってきたわけですね。
竹原:はい。「劇団間座」の立ち上げ公演のオーディションを受けて、そこでは「蛾」の役をやらせていただきました。
—え、「蛾」ですか……!
竹原:「蛾」になって、舞台を飛び回る役です(笑)。この役が、後々のご縁をつなぐことになるなんて、そのときは思ってもみなかったです……。じつは、その後に受けたシネマプロジェクトのオーディションで、晴れて出演が決まったのが上田慎一郎監督の『カメラを止めるな!』なんですよ。あとから聞いた話だと、上田監督は私がオーディションで披露した「蛾」の姿を観て「これは採らないと」と思ってくださったそうです。
「新しい経験」を求める気持ちの根底には「願望」があった
—何が次の扉を開けるきっかけになるかわからないものですね。でも、お話を伺っていると、だんだんと「竹原さんの道」ができてきている感じがします。そもそもなぜそんなに多くのご経験を求めていたのでしょうか?
竹原:そうですねぇ……、私、ずっと「手に職をつけたい」という気持ちが強くあったんですよね。実際、短大では教員免許を取ったし、証券会社では、外務員資格も取っています。習い事も、フラワーアレンジメントからコーチング、笑顔教室まで、いろいろやっていましたが、どれも始めるきっかけは「手に職につながるかもしれない」という思いからです。結局すべて続いていないんですが、やっている最中は「これを仕事にしたい」という思いに駆られて、本気で取り組んでいました。
—私も「これをやってます」と言えるものが欲しいとどこかで思って焦っているので、その気持ちはすごくよくわかります。
竹原:若いときほど、そう思ってしまうのかもしれませんね。でも、半ば強迫観念のように「手に職をつけなければいけない」と思っていた自分が、最近になって「何者にもならなくていい」と思うようになったんです。
「何者かになりたい」と思う気持ちの正体とは?
—え、どういうことですか?
竹原:「何者かである」ことを求めてしまうのは、わかりやすい資格や肩書き、「この仕事をやってます」と言えるものが欲しいと思っているからなんですね。誰かから、または世間的に認められなければいけないと考えてしまっているんです。
でも大事なのは「職業」でも「肩書き」でもない、いまの自分の気持ちです。気持ちには「形」がないから、不安に思うかもしれない。でも、一番大事なのは「いかに自分の気持ちに素直になって行動できるか」なんです。
—キャリア指導の現場では、よく目標(=なりたい「何者」の姿)から、逆算して考えろ、みたいな考え方をインストールされることが多いです。それがどこかで自分にも染みついている。でも、竹原さんのお考えはそれとは逆で、ある意味「即興的に生きよう」ということなのでしょうか。
竹原:だいたい、気持ちって変化しますよね。一番大事にしたいのは「いま」の気持ちです。私は、過去に教員免許や外務員の資格を取っていますが、いままったく活きてないですからね(笑)。これをうまいこと活用したら、一生安定して仕事ができるんでしょうけど。でもそれは、「いま」の私の正直な気持ちではないのです。「過去の●●を役に立てよう」と頭で考えるのではなく、「●●をやってみたい」と心で感じることを信じて進んでいったらいいんじゃないかと思います。
ただ、いろいろ経験してきて思うのは、過去の何かを役立てていないとしても、無駄にはならないということです。自分がいままで経験した「点」と「点」はいつかつながっていきます。どの点同士がつながるかはわからないし、いつつながるかもわからない。そして、人生の転機になるような人との出会いや、変化のきっかけとなるような機会は、いつだって不意に「おとづれるもの」であり、自分の予想外のところにある。だからこそ、自分の心のセンサーが動いたときに、その感覚を信頼して一歩ずつでも行動していってほしい。そうしたら、いつか振り返ったときに道ができていると思います。
だから、若いときほど不安に思うことも多いと思うけど、「絶対、大丈夫」って自分に声をかけて、安心させてあげて欲しい。どっかで「大丈夫」って思わないと、気持ちが焦るでしょう。そうすると「ああせな、こうせな」って結局自分を追い詰めることになるんですよ。
—「絶対、大丈夫」。お腹に響いてくるような言葉ですね。ここまでお話を伺ってきたところで、先ほどと同じ質問をしますが、竹原さんの「自分」は、見つかったと感じますか?
竹原:いまさせていただいている俳優のお仕事は、夜中まで仕事になっても「自分は本当に楽しいんやな」って心の底から感じられる。この気持ちは、会社で残業して「疲れたけど、みんなで頑張ろう」とは何かが違っていて、なんというか、細胞から喜んでいるような……。
—身体から自然に湧いてくるような充実感がある「状態」を実感できていることこそが、竹原さんがずっと探されてきた「自分」の答えなのかもしれませんね。最後に、新型コロナウイルスの流行に多くの人の生活が変化しましたが、これからの「生き方・働き方」で大切だと思うことを教えてください。
竹原:コロナでますます先の見えない時代だからこそ余計に、やってみたいことや興味があることがあったら、行き当たりばったりでもいいので、まずは行動してみてほしい。この話を聞いて「竹原は運が良かったからそう言えるんや」と思うのもひとつやし、「竹原みたいな人がおるんやったら、自分もやってみよ」と思うのもひとつ。行動も物の見方も全部が自分次第で自由です。でもね、点と点はきっといつかつながって、一人ひとりオリジナルの道になる。だから、先のことを心配するよりも、自分を信頼してあげて。絶対、大丈夫やから。
▼一問一答
いままで竹原さんが出会われてきた方々の中で最もインパクトがあったのは誰ですか?
上田監督。映画愛と情熱がすごい。そして、すべてのことを受け入れてくれる人なんです。ここ一年で、一番感動した作品を教えてください
映画『アーニャは、きっと来る』。実話を基にできていて、どの立場の人にも家族がいて日常の生活がある、という視点に考えさせられました。子どものときは好きじゃなかったけど、大人になってから好きになったものは?
羊羹。最近「リアルイベントってやっぱ必要かも」と思った瞬間を教えてください
宝塚を観にいったとき。舞台から伝わってくる臨場感は、リアルイベントならではです。あの世を信じますか?
信じます。なんか知らんけど(笑)。