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広告は未来へのプロトタイピング。気鋭のプランナーが考える、PRのこれから

30代はじめにもかかわらず、広告業界の中で頭角を表している、CHERRY Inc.の贄田翔太郎さん。今年のフジロックでは、ソフトバンクが展開していた『音楽が連れてくるもの』というPR映像のクリエイティブディレクターも務めるなど、クライアントニーズと時代感を的確に捉える嗅覚を持ち、華々しい仕事をする広告クリエイターだ。さぞや自信たっぷりな人かと思いきや、柔和で、人の話を聞き漏らすまいと丁寧に最後まで聞くような謙虚さに満ちた人だった。よくよく話を聞いてみると、意外にも挫折ばかりの人生だったとか。時代の半歩先を提案するような広告の世界で働くまでの挫折と発見の道のりを聞いた。

Profile

贄田翔太郎

2010年に株式会社アサツーディー・ケイ入社。マーケターとしてコミュニケーション戦略立案に従事した後、デジタルを活用したキャンペーンを多数制作。その経験を統合し、課題の発掘から解決に向けたコンセプト策定、企画制作とPRまでを一貫して担当する。ブランドと人の関係を定義し、絆を強めるプランニングが信条。地方への移住促進から企業の人材確保、新人アーティストのデビューPRまで幅広いミッションに対応する。2018年にPRクリエイティブを標榜する株式会社CHERRYを設立。

学生時代、虜になったRadiohead✕WOWOWのインタラクティブ広告

ー大学では、建築学科にいたそうですね。そもそも建築の世界を志したのにはどんな経緯があったのでしょう。

贄田:小中学生の頃、育ったのが埼玉県の北部にある熊谷という街で。そこから東京に出る唯一の手段だった高崎線の車窓から、さいたま新都心という街ができていく様子を見ていました。何にもないところから、駅をきっかけに一つの街が形成されていくことで都市が生まれていく。その過程を電車の車窓から眺めるたびに、幼心にもワクワクするような興奮を覚えて。自分もそういうことがやれるといいなと思い、まちづくり系のしごと、建築の世界に興味を持ったんです。でも自分が作りたいものを、図面や模型に起こしていくことに本当に苦しんでしまって。建築学生なのに(苦笑)。

ーなるほど。

贄田:早稲田の建築学科に進学したのですが、先輩も同級生も、創作エネルギーがほとばしっている人ばかりで。もう自分は全然ダメだと痛感させられました。比較的、うちの学科は体育会系の文化だったんですよね。毎週100枚のスケッチを描いて提出し続けなきゃいけない、とか。設計課題の提出まで、ほとんど寝ないで制作している同級生とかゴロゴロいて。そんな周囲に圧倒されて、これは厳しいぞ、と。今思えば早々に“ダメ”の烙印を自分に押してしまったんです。

ーそれからの学生生活はどんなだったんですか?

贄田:音楽サークルにいたので、サークルライフを充実させる方向に転がりましたね。赤提灯系の居酒屋に年間100日くらい入り浸っているような学生で(笑)。のらりくらりと過ごしていたように記憶しています。

ーそんな学生生活を送っていた贄田さんが、広告のデザインに目覚めたのにはどんなきっかけがあるのでしょうか。

贄田:当時はmixiが全盛期でした。今振り返ってみても、人を集客することなどはそこまで考えず、色んな面白いものをWEBクリエイター達がどんどん出せた、いい時期だったと思うんです。それにリアルタイムで自然に触れていて、インターネット上のインタラクティブな体験を面白いなと感じたんだと思います。

たとえば2009年、Radioheadの『In Rainbows』の来日ツアー時に行われた広告の影響は大きいですね。WOWOWのプロモーションでは、12台のカメラを使ってRadioheadのライブを撮影し、ユーザーは音楽に合わせてアングルを自由に切り替えながらオリジナルのライブ映像をシェアできる、という画期的なプロジェクト(『12 CAMS, CREATE YOUR RAINBOW』)もありました。僕は音楽もWEBも好きだったから、その両方へのリスペクトを表しながらWOWOWの魅力も打ち出せる形で、Radioheadを知らない人達にも彼らの音楽が広がっていく様を見たときに、すごい仕事をやる人達がいるんだなと嬉しくなったんです。それがきっかけで広告業界に入ったという感じです。

マーケターの経験からたどり着いた、広告への第一歩

ー大学院を経て、いざ憧れていた広告業界、ADKに入社されます。けれども配属はマーケティング部。ご自身が憧れていたクリエイティブの世界とは少し離れてしまった、という印象はなかったですか?

贄田:クリエイティブというより、もともとはWEBサービスを立ち上げたいと思っていたんです。ただ、新卒は基本的に新規事業を行う部署には配属されない。少しでも事業開発に近いところを考えた結果、たどり着いたのがマーケターというポジションでした。とはいえ、戦略コンサルティングファームのキレッキレな方々と一緒に仕事をしたりすると、彼らのスピード感や精度には全く敵わないと思い知りました。そういう意味ではずっと自分の居場所を探し続けていたのかもしれません(笑)。

ーマーケター時代に、印象に残っている出来事はありますか?

贄田:入社2年目ぐらいの頃に、地方の豆乳メーカーのマーケティング戦略を担当していたんですが、取扱店があまりにも少ないという課題があったんです。それを逆手にとって、「ここにはまだ置いてませんよ」って位置情報を付けてTwitter上で宣言してくれたら、そのお店に取り扱いの依頼をしに行くというキャンペーンをやったんですよ。そしたら、ここの豆乳のファンの方々が「ここにも無い、ここにも無い」ってどんどんピンを打ってくれたんです。

ーなるほど。

贄田:新規の取扱店へのアプローチって、本当はメーカーの営業さんがやるべきことだけど、交渉のきっかけを作るのに皆さんすごく苦労されている。その突破口を、ファンと作ることができたんです。結構大きいチェーンのスーパーにも一気に入荷が決まったりして、クライアントさんにすごく喜んでもらえて。そのときに、インタラクティブの力を使えば、皆に喜んでもらいながら上手く循環していく関係が作れるんだと気付いたんです。

ー素晴らしいですね。広告という仕事の醍醐味はどうお考えですか?

贄田:基本的に広告ってゼロから生み出すものではなくて、何かしらプロダクトやサービスにかける想いがクライアントさんの中にあるわけですよね。そのエネルギーがあるということは、その時点で既になにがしか他のものとは違う特性を持っているってことだと思うんですよ。あとはそれをどう増幅させながら伝えられるか、時代との接点を見つけてあげられるかが、自分達の役割だと思っていて。どんな仕事でも、必ず良いところがあるはずだという前提に立てるのが好きなところです。

ー特性を見出すことが、広告のはじまりだと。

贄田:はい。あるときはブランドの辿ってきた歴史を遡って見出せることもあるし、細かく要素分解することで探せる場合もあります。しかもその探し方が広告クリエイターによって違う。自分は広告制作者としてまだまだこれからですが、それでもその探索作業が好きなんです。

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「エモすぎる」と話題を呼んだ、フジロック✕ソフトバンクPR映像の裏側

「エモすぎる」と話題を呼んだ、フジロック✕ソフトバンクPR映像の裏側

ー広告業界を志したきっかけがRadioheadのプロモーションとのことでしたよね。音楽の仕事に関わりたいというような憧れもあったんですか?

贄田:元々、音楽サービスに携わりたかったんですよ。その頃の想いを一つ成仏させられたのが、ソフトバンクのフジロックでの仕事でした。

ーソフトバンクのフジロックライブ配信をPRする映像ですね。教室でのCDの貸し借りや、好きな人と片耳ずつ付けるイヤホンなど、これまでの音楽との出会い方が凝縮されていて「エモい」と話題になっていました。これはどういった経緯で実現に至ったのでしょうか?

贄田:もともとフジロックで協賛したいっていうクライアントさんの長年の想いがあったんです。フジロックのライブストリーミングを観る音楽ファンに、ソフトバンクが配信サポートする事実をどれだけ印象に残せるか、自分なりに向き合ったら出てきたんですよね。

ーアイデアの素はなんだったんですか?

贄田:確か出張で飛行機に乗ったときに、たまたま機内チャンネルでSUPERCARの特集をやってたんです。彼らの楽曲をまるっと全て流してくれるチャンネルだったんですけど、好きで何度も聴いてきた曲が、雲の上ではこれまでと違って聴こえたんですよね。「ああ、機内で聴くとまたちょっと違うんだな」と気付いたときに、今音楽のおかげで新しい体験をしているな、とハッとして。そういう瞬間って今まで他にどれだけあったかなって、自分の音楽との出会いを全部書き出していって生まれたのがあの企画なんですよ。

ー胸が熱くなります……。

贄田:スケジュールが相当タイトだったこともあって、ここまで短期間に集中して映像を制作したのは初めてだったかもしれません。でもその中で自分と向き合ったら、結果的に世代や趣味趣向の壁を越えて、すごくたくさんの方に共感してもらえたんです。フジロックが終わった後もTwitterで拡散され続けて、気付けば300万回近く再生されていました。

挫折の中で見つけた今の道。未だ志半ば。それでも感じ始めた手応え

ー贄田さん、本当に広告がお好きなんですね。

贄田:そうですね。ある人から「自分が社会に対して提案できるものは、結局のところ自分が経験したことからしか出てこない」って言われたことがありました。それから意識して、広告制作の度に自分の記憶を掘り起こすようになったんです。できるだけ気を付けるようにはしているのですが、やっぱりまだまだ小手先でやってしまうことも多いんですけど(苦笑)。

ーたしかに、先ほどのフジロックCMのお話は、まさに贄田さんご自身が「経験したこと」がにじみ出ていたように思います。

贄田:一方で、関わる全プロジェクトで、必ずしも自分がアイデアオーナーになる必要はないとも思っていて。自分以外の誰かが考えた企画でも、できればそのチームに自分が入ることでより良くなってほしいし、できるはずだと信じているんです。自分がチームに入ることでそれまでなかった視点が加わるとか、行き詰まっていた制作プロセスに突破口が開けるとか、そういうことに貢献できれていれば、必ずしもアイデアオーナーじゃなくても、アウトプットのクオリティと結果に貢献できる。もちろん、悔しい気持ちも持ちつつ(笑)。

ーどうしてそこまで謙虚でいられるんでしょう。

贄田:この世界で何年かやってきて、素晴らしい仕事を継続的に生んでいる人は、表現面でもチームビルディングの面でも、いろんな「型」を持っている。そのことを痛感しているからです。さらに、一緒に働く人々にどれだけ自分の意志や意図を分かってもらえるか、こいつのために一肌脱ごうと思ってもらえるか、というような関係構築もすごく大事にしています。そういった、今まで仕事でご一緒した方々から得た気付きも今の見方に関係しているのかと思いますね。

ーこれから広告の仕事を通じて、どんなことを実践したいですか?

贄田:これからの広告は、これまで以上にそのブランドやカテゴリー、もっと言うと社会全体で数年後、当たり前になることのプロトタイピングになると思っているんです。企業の広告宣伝費やPR予算の使い方が変わっていく。

ーというと?

贄田:日本人って集団で新しい概念のものを作るのが苦手で、会社で何か新規事業を立ち上げようとしても、散々ブレストを繰り返すだけで終わってしまうことも多い。でも広告だったらキャンペーン期間中に、世の中にその価値を広く問いかけて、好評でも悪評でも無風でも、そこで得た何かしらの反応をフィードバックとしてサービスを構築していく。これってまさにオープン型のプロトタイピングであり、ファンづくりのプロセスですよね。

そういった目線で一つひとつのキャンペーンを作っていければ、世間からも広告の新しい役割を認めてもらえるんじゃないか。まあ、僕はそうなると嬉しいなと思っているのと、2020年以降の日本の広告のあり方はそっちに振れるんじゃないかなと。そういう領域を攻めていきたいですね。まだまだ志半ばですし、やりたいことだらけです。

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国内、海外を問わず集めている、映画のサントラLP

会社でもレコードプレーヤーを備え付けたので、作業時にも時折聴いています。これから音楽ストリーミングサービスのキュレーションで、オススメを最適化される時代になっていきますよね。レコメンデーションに沿って1曲単位でランダムに聴いていくのが当たり前になりつつある。それで新しいものに出会うこともあるのでありがたいんですけど、サントラのように作り手の意図を持った流れを感じられる喜びみたいなものは、常に持っておきたいです。
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