「アーツ千代田 3331」設立メンバーが語る、アートを生業にするという覚悟
- 2019/09/30
- SERIES
「『やりたいことだけやる』を重視している」と語る宍戸さんに、現在に至るまでの葛藤や道のりを訊いた。
Profile
宍戸遊美
1978年東京都荒川区生まれ。東京造形大学美術学部絵画専攻卒業。卒業後、保育所芸術専門員の仕事に従事しながら、沖縄県沖縄市でのアートプロジェクトの立ち上げと展覧会制作・発表を行う。2004年に芸術活動コマンドNに加入し、東京都千代田区でのアートスペース運営と、富山県氷見市、秋田県大館市でのアートプロジェクトの事務局を担当。2008年より「3331 Arts Chiyoda」の立ち上げに参加し、現在は地域担当マネージャーを担当。2013年に個展『レインボーレーン』を開催。来年開催予定の『東京ビエンナーレ2020』では事務局長を務める。
音楽ではなく、美術の道へ。絵に魅了された幼い頃の原体験
ー10代の頃から、将来はアートに携わりたいと考えていましたか?
宍戸:絵を描くのはもともと好きでしたが、中学ではずっと吹奏楽をやっていたので、音楽の道に進むことも視野に入れていました。でもあるとき、絵を描くほうが情熱を傾けられる気がしたんです。美術専門の高校に行こうとも思いましたが、基礎となるデッサンができないと入学できないので断念。結局、一般の高校に進学し、アトリエに通いながら本格的に絵を学び始めました。その頃には、漠然とこの道で食べていきたいと考えていましたね。
ー絵画で食べていくのは容易ではないですが、躊躇はなかったのでしょうか?
宍戸:当時は、絵で食べていく難しさもわからなかったので、躊躇はなかったです(笑)。シンプルに「一生かけてやりたいことをやる」と決めていました。両親もそういう考えが強かったので、「あなたがやるならば」と応援してくれましたね。
ーアートの道を志すきっかけとして、影響を受けたものはありましたか?
宍戸:小さい頃から両親に連れられて、美術館によく行っていたのは大きいです。そこで絵をたくさん見ましたし、材質の面白さや魅力を感じるようになりました。たとえば油絵は、ツルッとした表面なのに、奥行きを感じる作品をすごく不思議に感じたり、デコボコしている絵の具の質感にゾクゾクしたり。そういった体験や感覚が記憶に残っていて、もっとアートの世界に入ってみたくなったんだと思います。
価値観が広がった「遺跡発掘」のバイト。そこで知った人生の選択肢
ーその後、東京造形大学に進学されたそうですね。どのような大学時代を過ごされたのでしょうか。
宍戸:芸術の勉強をしながら、アルバイトもしていましたね。特に印象に残っているのは、「遺跡発掘」のバイト。運転免許の取得に必要な費用を稼ぐため、大学1年生の春休みの1か月半だけ働きました。そこのバイト仲間は、浮世離れした人ばかりでそれぞれの人生観や生き様にとても刺激を受けました。
ー珍しいバイト体験ですね。どんな人が働いていたのでしょうか?
宍戸:普段はお化け屋敷のスタッフをしている人もいれば、時代劇で斬られ役をしている人もいました。30代、40代の働き盛りの大人が、「そろそろ社会復帰しないといけない」ってつぶやきながら遺跡を発掘してるんですよ(笑)。でも、みんなに共通していたのは、「遺跡発掘」のバイトがあくまで「自分の進むべき道の過程である」と思っていたこと。生き方の選択肢が多様にあることを彼らから学びました。
また、私が知らないアーティスト情報だったり、海外で観た展覧会の話だったり、自身が大切にしているアート観をたくさん聞かせてくれました。それがすごく面白くて、彼らのインタビューをもとに作品も制作しました。彼らから非常に影響を受けましたし、アートに対する価値観も広がりましたね。
自分がやりたいアートとは? 大学卒業後の生活と葛藤
ー大学卒業後は、どこかに就職されたのでしょうか?
宍戸:いいえ、学生時代からのアルバイトを掛け持ちしていました。時給の良いホテルの配膳バイトのほか、マンションの床補修のバイトもやっていて。後者は一応、絵に関する専門技術が求められる環境でした。「色を合わせる技術のある人が良い」とか、平滑な床面に仕上げるために「バランス感覚のある人に入ってほしい」とか。でも私は、続けるうちにだんだん気持ちが滅入ってきたんですよ。アートとして何か表現できるわけではないので、「お金は稼げるけどこれが自分のやりたかった仕事なのか?」と。
ー葛藤があったわけですね。
宍戸:そうです。ちょうど同じ時期に、高校時代の友人からの紹介で保育園の芸術専門員という仕事もはじめました。その保育園は独自の試みとして、園の子どもが自由に遊びに来られる「アトリエスペース」という部屋を開放していたんです。そこで、アトリエに常時いる「アーティストの役目」をしてほしいと頼まれて。
ー「アーティストの役目」とは、どんなことをするのですか?
宍戸:特に決まりは、ありませんでしたね(笑)。アトリエスペースの目的は、アーティストが身近にいる環境で生活することで、子どもたちに感受性を養ってもらうこと。その方針に沿っていれば、何をしても大丈夫でした。ですので、最初は子どもたちに何かを「教えている」実感がなくて悩みましたね。でも先生方に相談したら、「教えるのではなく、あなたがやっていることを見て、子どもたちがやりたくなったらやればいい」と言われたんです。
私自身、もともとフィニッシュワークに重きを置くよりも、どう変化していくかのプロセスに興味があるタイプだったので、その言葉に納得できました。
- Next Page
- 「やりたいことだけ、やればいい」。ひとつの提言で大きく舵を切ったアート人生
「やりたいことだけ、やればいい」。ひとつの提言で大きく舵を切ったアート人生
ーその後、現在のキャリアにはどのようにつながっていくのでしょうか?
宍戸:アルバイトや保育園の芸術専門員をやりながら、大学時代から続けていた自身のアート活動も精力的に続けていたんです。その一貫で取り組んでいたのが、定期的に地方に足を運び、現地の人や情景に触れて制作した作品を発表をすることでした。仕事ではありませんでしたが、自分の「やりたいこと」を追求できる場だったので、いちばん生き生きする瞬間でした。
それを、非営利で芸術活動を続けていた団体「コマンドN」というアーティストグループの主宰・中村政人さんが見てくれていて。「そういうことを続けたいなら、仲間が必要でしょ」と、「コマンドN」に誘ってもらいました。
宍戸:当時はいろいろ悩みながら仕事していましたが、「やりたいことだけをやりなさい。時間がもったいない」って、中村さんから言われて。それがきっかけで、「本当にやりたいこと」を突き詰めてみようと思ったんです。保育園の芸術専門員はやりがいや学びもあったので継続しましたが、床補修と配膳のアルバイトはやめました。
ーそのタイミングでの中村さんの一言は大きかったわけですね。
宍戸:そうですね。中村さんの言葉で、アートで食べていきたいなら「まだ深掘りできてないアートを、もっと深くまで掘り下げるべき」と決心することができました。
ーそれから「3331 Arts Chiyoda」の立ち上げにはどう結びついていくのでしょうか?
宍戸:私が行っていた地方でのアートプロジェクトは、その土地や現地で暮らしている人たちにフォーカスし、アート作品を制作するというもの。自分のルーツと異なる場所や人に接触したときに表現者として「どう感じ、どう表現するのか」ということに興味があったんです。だから、とてもやりがいがありました。
でも、同時に「自分の地元である東京を見つめてみたい」という思いも20代の頃からずっとあって。だから当時、東京でさまざまなアートプロジェクトを展開していた中村さんから「アートの新拠点をつくろう」と言われたときは、地元東京でのチャンスが巡ってきたという感覚がありました。不安も感じましたが、当時の立ち上げメンバーは中村さん以外全員20代〜30代前半。だからこそ、挫折経験が少ないことの強みで踏み切った感じはします。まず「見る前に跳ぼう」と。その後、次々とベテランの方々も参画してくださって誕生したのが、「3331 Arts Chiyoda」です。
「旅人の感覚」が大事。地方活動の経験で得た、アートに必要な視点
ーさまざまな地方でアート活動をするのと、東京の拠点でアートを発信するのは、まったく違うやり方だと思います。ご自身が行なっていた地方プロジェクトの経験が、「3331 Arts Chiyoda」の運営に活かされていると感じることはありますか?
宍戸:アートに必要な「視点」において、活かされていると思います。人間はずっと同じ場所で生活していると、つい「暮らすモード」での視点になってしまう。そうすると身近なものには「また会えるでしょ」という慢心が生まれるので、新たな発見も生まれにくくなると感じます。
一方、私がよく地方に行っていたときは、「自分は旅人である」とあえて強く意識するようにしていました。「旅人」であることを意識すると、場・モノ・人を見る集中力が高められる気がするんです。「来訪者の自分を相手はどう受け入れるのか」とか「自分はどう振る舞うか」とか。そうすることで、感覚が研ぎ澄まされていろいろな学びにつながります。
だから、東京で「3331 Arts Chiyoda」を設立した後も、「旅人」のマインドを忘れないようにしています。その感覚が自然と身についていれば、普段当たり前に存在しているものも、新たに捉え直すことができる。「3331 Arts Chiyoda」の運営だけでなく、アートに携わるうえでいまでも大事にしている感覚ですね。
ー来年で『3331 Arts Chiyoda』は創立10年ですが、設立当初から掲げているビジョンはありますか?
宍戸:「地域に必要とされる場所になる」という目標は、ずっと変わりません。それはアートの存在自体がそうであってほしいという願いと一緒です。その役割を担うためにも、地域コミュニティーのつながりは設立当初から非常にこだわってきました。街の人に話しかけられたら、どんなに急いでいても振り返って挨拶することを徹底して心がけています。すべてがワンチャンスで、その積み重ねが大事なんです。
この周辺地域の人たちって、道路でもまるでリビングにいるみたいに振る舞うんです。ステテコのまま玄関前まで出てきちゃったりするんですよ(笑)。そこで「おう!」と声をかけられれば、「今日も暑いですね」とか「この前はありがとうございます」とか、ささやかなコミュニケーションを意識的に続けています。そうするうちに町内清掃や、公園の花の植え替え、新年会など町内の集まりにもどんどん入れてもらえるようになりました。
ーある種、『3331 Arts Chiyoda』がこの街を構成する要素の一部になってきたんですね。
宍戸:最近では、町内のお悩み相談的な仕事をいただくことも増えました。「地域から必要とされているのかな」と日々実感が増しますね。そういった意味では、設立当初から掲げているビジョンをこの10年で達成できつつあるのかなと思います。
ですので、それを継続しつつ、ここからの10年をどう考えるかが大事。チームとしてしっかり見つめ直すべき時期がきたと思っています。新しいことにも、どんどんチャレンジしていきたいですね。
ピンチなときも、諦めずに考え続ける。10年後にかける想い
ーやりたいことに注力するのは難しいと感じる人も多いはず。挫折を感じることはないのでしょうか?
宍戸:もちろん、壁にぶち当たることもたくさんあります。でも性格上、あまりくよくよしないですね。かなりピンチな状況でも、「頑張れば、なんとかなるんじゃないか」って(笑)。
いちばんピンチだったのは、沖縄で野外上映のプロジェクトを任されたときの出来事。数名の作家たちの作品を一本の映像にまとめて、それを上映する予定でした。でも、その編集済みデータを上映直前に確認したら、音が入っていないことに気づいて……。
ー想像しただけで、ゾッとする状況ですね……。
宍戸:大々的に告知して、地元の人も上映会場に続々と集まってきている。切羽詰まった状況のなか、編集データから映像を書き出して、その音声を出力しながら上映しようとしたんです。しかし今度は、編集したパソコンのバージョンじゃないと編集データが開けないと発覚。最終的に、編集を担当した人の自宅からパソコンを借りて、なんとかその場で上映できたんですよ。データを書き出しながらの強行上映だったので、途中で誤作動が起きれば上映事故。まさに一発勝負でした。
ー厳しい状況でも匙を投げず、打開策を考え続けた結果ですね。
宍戸:でも、私一人だったら絶対にできなかったと思います。土壇場でも絶対に諦めず、アイデア考え続ける仲間に囲まれていたから、なんとかなった。どんな状況でも、やると決めたなら、やり切る方法を考える。いろんな人の手を借りてでも、やらなければならないという姿勢が大事だと思います。
ー来年開催される国際芸術展『東京ビエンナーレ2020』では、宍戸さんが事務局長を務めるそうですね。どんな芸術展なのでしょうか?
宍戸:アートや芸術のあり方も大きく変化したいまの東京で、新しいフレームや仕組みの実験の場をつくりたい。そんな思いから、2020年の開催を決めました。「ビエンナーレ」は、イタリア語で「2年に1回開催する」という意味。ですから、今後も継続して開催していくことを前提としています。
東京でのアート活動は、面白さを感じる一方で、難しさも感じます。ある意味、東京っていろんな側面があると思うんです。地方から見た東京もあれば、東京で育ってきた私たちから見た東京もある。それをアートや文化を通じて、「新しい東京の姿」として見せるのが『東京ビエンナーレ2020』の目標です。成功までの道筋を考え続けて、やりきりたいですね。