CINRA

ミーハーが原点。マス目線のデザインを追求する。

ヤフー株式会社と株式会社GyaOが運営する映像配信サイト、「GyaO!」のWEBデザイナーとして活躍している永石さん。かつては大学を中退し、テレビの制作会社でADをしていたという経験の持ち主だ。「テレビのADからWEBデザイナーへの転身」という希有な体験は、今の仕事にどう活かされているのだろうか。また、月間1900万人ものアクセス数を誇るサイトのデザイナーとして「多くの人に見られる」ことを前提に、どんなことを意識してサイト作りをしているのか。大手WEBメディアに携わるデザイナーに、その遍歴と現在を伺った。
  • インタビュー・テキスト:栗本千尋+プレスラボ
  • 撮影:すがわらよしみ

Profile

永石 光

1981年生まれ。愛知県岡崎市出身。大学中退後、テレビ番組制作ADとして働いたが夢半ばで挫折。その後、デジタルハリウッドに入学。卒業後は名古屋でのWEB制作会社勤務を経て、株式会社USENに入社。「GyaO!」の前身である「GYAO」のWEBデザインを手掛ける。2009年よりヤフー株式会社のサービスになり、「GyaO!」のデザイナーとして働いている。

ミーハーで勉強嫌い。大学を中退し、テレビ業界へ

―永石さんはテレビ番組のADをされていた経験があるそうですが、もともとテレビ制作に興味があったのでしょうか?

永石 光

永石:学生のころから漠然と、将来進む道を二択で考えていました。僕は田舎のミーハー少年だったので(笑)、テレビ制作か、趣味でWEBサイトも作っていたのでWEBデザイナーか、どちらかに進もうと思っていたんです。上京して大学に入学してからは、毎年文化祭に率先して参加し、熱中しすぎて授業をサボってまで作業しているような学生だったんです。それで「イベントを作り上げることの楽しさ」みたいなのを味わっちゃって、テレビ制作の仕事をしたいという思いの方が強くなって。そのときは早く社会に出て働きたい気持ちもあったし、何より勉強が嫌いだったこともあり、3年生のときに大学をドロップアウトしてしまいました(笑)。当時、友達の兄がテレビの制作プロダクションに勤めていたので、運良くそこで働かせてもらうことになったんです。

—思い描いていたひとつの夢を、そこで叶えることができたわけですね。テレビ制作の現場というと、かなりハードなイメージがありますが、当時の仕事内容を教えていただけますか。

永石:僕は主に音楽番組の制作に携わっていました。ADとしての雑用をこなしながら、番組を作りあげていく。みんなが良いものをつくりあげるために、睡眠を削りながらも戦うような毎日で。でもひとつの番組が出来上がったときの一体感や達成感は、学生時代のイベントと比にならないほどでした。そして、休む間もなく次の番組制作に取り掛かる。……今考えてもとても多忙な日々を送っていましたね(笑)。

―辞めたのは、やはり多忙が原因で?

永石:いざ社会に飛び込んでみたものの、現実は厳しかったというところでしょうか。連日の徹夜続きで、家に帰っても着替えるくらいしかできず……、東京で高い家賃を払って部屋を借りている意味がわからなくなって。本当に、人間としての生活をできていなかったように思います(笑)。若かったので体力には自信があったけど、休みがなくて遊びには行けないし、友達とご飯を食べにも行けないし、色々と犠牲にしなければいけなかった。仕事自体にやりがいを感じていたんですが、2年経ったときに「自分にはこの生活は向いていないな」と思ったんです。

―実際に社会に出てみてからそんな厳しい現実に直面したら、「大学を続けていれば良かった」などと思ったりしました?

永石:そう思うようになったのは、もう少し時間が経ってからですね。当時は、それこそ超若造で、イキがりすぎてたし、親の猛反対を押し切って大学を中退してしまったので、「勉強ばかりのつまらない学校なんかに戻ってたまるか!」という思いを仕事の原動力にしていた自分もいたので(笑)。

人と人とを繋ぐ、コミュニケーションの場作り

―それでテレビの制作会社を辞めてからは、どうされたんですか?

永石:一旦リセットする気持ちで、愛知県の実家に帰りました。親は、連絡がつかない息子を心配していたようで、「やっとわかってくれた」みたいに喜んでいましたね(笑)。多忙な生活から一変して時間ができたので、アルバイトをしながら、「やりたいことは何か」と考えていました。そのときに、もうひとつ描いていた夢である、「WEBデザインの道へ進もう」という考えに行き着いたんです。それで知識を身につけようと思い立って、学費を貯めて専門学校(※デジタルハリウッド)へ進学することに決めました。昔から趣味でサイトを作ることもしていたのですが、完全に独学だったので。

―二つ目の夢である、WEBデザイナーへの道はここから拓けたんですね。ちなみに、趣味で作っていたサイトとは?

永石 光

永石:僕はもともと音楽が大好きで、非公式ですが「ゆず」のコミュニティサイトを立ち上げたりしていたんです。ファン同士が交流できるようなことをWEB上できればいいな、と思って。学校にも人脈を作りに行っていたようなものだったし、友達と騒いでいるのが好きなタイプだったので、「人と人との交流」に重点を置いていたような気がします。

—今で言うSNSのようなものができないか、当時から考えていたんですね。

永石:大げさに言えば、そうですね(笑)。大学時代はイベントを作ることが好きだったし、趣味でチャットも積極的に使ったりしていたし、現実世界でもWEBの中でも、コミュニケーションの場を作りたかったんだと思います。

—もともとWEBデザインに興味を持ったきっかけは、そういうところからきているんでしょうか。

永石:デザインということでいうと、父が車のデザインを手掛ける仕事をしていた影響は大きいですね。家でサラサラッと車の絵を描く姿を見ていたので、幼い頃からデザインに触れる機会には恵まれていました。それでWEBをやるようになってからは、仕組みが気になっていって独学でトライ&エラーを繰り返しながら、どんどんのめり込んでいった感じです。

—なるほど。その後デジタルハリウッドに入学し、WEBデザインの知識を専門的に学んだわけですが、卒業してからの進路は?

永石:1年間で卒業し、名古屋の会社に入社しました。その会社でポータルサイトを立ち上げるということで新規事業部ができて、オープニングスタッフとして雇われたんです。サービス内容は、IDを登録すれば自分でホームページをカスタマイズして作れるというもの。今で言うと「Movable Type」とか、「Word Press」のような感じですね。当時としては新しくて画期的に思えるサービスだったんですが、もともとWEB制作がメインの会社ではなかったので、複雑な仕組みで運営もままならなくなり、システムを担当していた会社に移管されました。1年かけてそのサービスを立ち上げたのですが、結局その部署は無くなって退職しました。

プレッシャーでもあり、モチベーションにも繋がる大きな仕事

—そして、再度上京したと。東京に出ることに理由はあったんですか?

永石 光

永石:地方だと最先端の技術に触れることができないと実感したし、給料も安いし、何より、東京にやり残していることがたくさんあると思ったんですね。大学時代は東京の外れの方に住んでいたし、就職してからも仕事漬けだったので「まだ東京の文化を身に浴びていないぞ」と。それこそ大学時代は都心って怖い場所なんじゃないかと思っていたんですけど、二度目に上京したときはそこまで敷居が高く感じなかったんです。それまでは東京より田舎の方が、自分の気質に合うんじゃないかと思い込んでいたのですが、4年経って戻ってきたら、東京の方が意外と居心地が良くて。自分が求めていた「最先端のものに触れることができる」というのも大きかったのかもしれませんね。

—名古屋の小さな会社のデザイナーから、毎日相当な人が見るサイトのデザイナーとして働くことになったわけですが、大きく変わったなどはありましたか?

永石:やはり、ユーザーの反応が数字になって顕著に現れる点でしょうか。デザインを少し変えただけでPV数が一気に変わることもあります。最近の仕事で印象深かったのは、MTVの「VMAJ2012」というイベントの公式サイト。サイトを作って終わりではなく、イベント中の情報を更新していくようなものでした。ソーシャルでの反応も直に見えて、1万8000もの「いいね!」が押されたときは純粋に嬉しかったです。

—それだけの反響があるダイナミックさは、大規模サイトならではですね。例えば、仕事に対するモチベーションは、そういったところからくるのでしょうか。

永石:そうですね。「最前線のトピックを仕事にできること」と、「たくさんの人に見てもらえる環境があること」はやりがいにも繋がりますね。今、一番話題のコンテンツが次から次に舞い込んできて、スピード感のあるなかで仕事をさせてもらっています。営業がいて、編成がいて、編集がいて、デザイナーである僕はリレーで言うアンカーのようなポジション。スケジュールは、前段階で予定より遅れてくることは当然のようにあるわけですが、ページをアップする日はあらかじめ決まっているので、どんなにハードなスケジュールになろうと、必ず予定日までに作り上げなければいけない。その点、僕はテレビのAD時代にめちゃめちゃ鍛えられたので(笑)、タフさはある程度あるのかな、と思います。やっぱり自分のつくっているページの先には何千万人という人がいると考えると、プレッシャーもある反面、それもいいモチベーションに繋がっているのかなって思います。 

—AD時代に培った、責任感やタフさは、今でも活かせているんですね。ところで、完成したページは何千万人という多くの人が見るわけですが、仕事をしていて、心掛けていることはあったりしますか?

永石:つくるものが多種多様なので、一本の軸とはいえませんが、サイトを見るユーザーの目線に立ってデザインすることはいつも念頭においています。「クライアントがこう言っているから」ではなくて、老若男女を対象としたサイトなので、「かっこいいけど見づらいデザイン」にはしないようにしています。例えば、年配の方が見にくるような特集は文字を大きく、動きのないサイトを作るように心がけるとか。今後もそういったターゲットを見失わず、マスに対しての目線を忘れずにいきたいですね。

永石 光

—そういう心掛けが、大規模サイトを支えているんですね。とはいえ、多種多様な制作に携わるということは、自分の興味のある案件ばかりでもないですよね?

永石:そうですね。予備知識がないままにデザインしてしまうと、ユーザーの求めているものとかけ離れてしまいがち。それを避けるために、事前に勉強するようにしています。例えば僕は、ギャンブルに興味がないけど、パチンコのページを任されたら、「マリンちゃんとは何ぞや?」といった情報収集から始めます。パチンコ特有のギラギラ感を汲み取って、デザインに落とし込む。自分の想像していたものとデザインが合致しないときも、もちろんありますが、それが「ピシャ」って合致する瞬間もあって。そのときはすごく気持ちいいです。

—では最後に、永石さんの今後の目標を教えていただけますか。

永石:ドラマ、映画、音楽など、エンタメ系の全般を扱っていて、さらに特集も充実しているサイトって他にないと思うんですよ。僕自身はミーハーだということが原点にあるので(笑)、そういった意味では、自分のやりたいことは叶っていると思います。あとデザイナーとしての目線で言うと、個人的にはもっといろんなページを作っていきたいです。例えば、ギミックインタラクションにも挑戦して、サイトの見せ方を工夫するとか。もちろんトップページは誰が見てもわかりやすいものであることが大前提なのですが、映画やドラマ、アーティストにフィーチャーしたページであれば、ある程度ターゲットが絞れるので、これから色々とチャレンジしていきたいですね。

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地獄

風濤社の「地獄」という絵本です。千葉県安房郡三芳村延命寺に所蔵している「地獄極楽絵図」に文章をつけたもので、絵図自体は1784年に描かれたものらしいです。子供が生まれてから絵本集めにハマッていて、いろいろ検索していたら辿り着きました。子供には、「地獄からの使者」という設定で読み聞かせています(笑)。
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