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鷲田清一インタビュー【前編】「僕は哲学者だけど、それを職業だと思っていない」

クリエイターやスタートアップ企業などが集まる中目黒のワークスペース「みどり荘」が『We Work HERE』という本を作ったらしい。職種、国籍、年代もさまざまな人々の生き方・働き方がつまった、100人分のインタビュー集。この本に関わったみどり荘のクリエイターたちに、この百人百様の濃密なインタビューを一冊にまとめるにあたり収めきれなかったエピソードを改めて語っていただきます!

    Profile

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    みどり荘

    みどり荘1@中目黒、みどり荘2@表参道、みどり荘3@福井で展開しているシェアドワークスペース。様々な仕事、国籍、趣味、考えを持つメンバーが集まってその混沌を通して生まれる「何か」を楽しみながら働くところ。8月8日に「みどり荘」の一風変わった仲間たちや、彼らとのつながりで出会った人たち、ワークとライフの区別が曖昧で、ただここで楽しく生きて働いているように見える人たち、「生きる」と「働く」が一緒になったような人たち、そんな100人に「働くとは何か?」という問いをぶつけてまとめた本『We Work HERE』を発売。只今絶賛発売中!

    URL:http://midori.so/ 書籍URL: http://midori.so/weworkhere/

    今回は、哲学者であり、京都市立芸術大学の学長を務める鷲田清一さん。ご自身の仕事論や、これからの時代に求められる働き方をお聞きしました。

    自己を表現することと、人に応えること

    —ご著書である『だれのための仕事』(1996,岩波書店)を拝読して、仕事か遊びか、労働か余暇か、という従来の二元論が意味を消失したのが現代社会であると。私たちが今回出版した『We Work HERE』でも、まさに「WORK」と「LIFE」は単純に切り分けられるものではない、そういうことを100人の仕事を取材することで伝えられればと思っています。鷲田さんは「哲学者」ということですが?

    鷲田:僕は哲学者だけど、それを職業だと思っていなくて、本当はみんな哲学者になってもらわないと困るんです。哲学というのはひとつのディシプリンじゃないし、ひとつの専門領域でもない。誰もが社会生活、個人生活する上で本当に大事なものは何かを考えること。あるいはいろんな出来事や制度の根拠になっているものは何か、何が根拠になっているのか、それがなぜ成り立つのかを考えること。

    例えば、病気の症状を改善させるのは医者の仕事だけど、それで本当に治ったと言っていいのか? そういうことを考えるのが哲学。法律にしても、それを鵜呑みにするのではなく、その法が成り立つ根拠を考えること、料理なら、料理法を覚えて調理するだけではなく、料理とは何か? を考えるなら、それは哲学になります。

    僕はファッションを哲学の対象にしてきましたが、それはたまたまファッションデザイナーと組んで、服を着る事の意味を考えてきただけなんです。それができたのも、僕らが憧れていた世代のデザイナー達は言葉を使わずに服を作ることで、服を着る事の意味を考える仕事を既にしていたから。日本のファッションデザイン、これは哲学じゃないかと僕は思ったわけです。そういう意味で哲学とは職業ではなくて、生存の知恵と技法の根本的なもののひとつ。料理をつくることもそうですけどね。でも、哲学も料理をつくることと並ぶくらい大事なことだと思っています。そういう意味で、哲学者というのは職業ではないんですよ。

    —では、鷲田さんご自身の「仕事」は何でしょう?

    鷲田清一さん

    鷲田清一さん

    鷲田:自分が「表現する」ことと、人に「応える」こと、大きくこの二つです。僕に限らず、表現者というのはじっとしていられない、強烈な違和感みたいなものがベースにあるんじゃないかな。その違和感の中身は人によって違うけど、多くの表現者は自分の中にギスギスした、スッと収まらないものを持っていて、それを原動力にしている。「偉くなりたい」とか「金を稼ぎたい」とか、そういう思いは全然なくて、止むに止まれずやっている、みたいなところがあります。

    そのような「表現」という意味では、遊びでもなく仕事でもなく、選択もできないし、突き上げられて結果として職業になっただけ。遊びでは絶対にできないし、しんどいのですが、かたちになっていくプロセスは楽しくてゾクゾクするものがある。しんどいこと、辛いこと、ゾクゾクすることがひとつになる、そういう作業なんじゃないかな。そういう「表現」が元になった仕事と、もうひとつは大学の仕事、つまり人に応える仕事をしています。

    —「人に応える」ということは、他者や社会への「責任を果たす」ということでしょうか?

    鷲田:責任というより、何かに応える、呼ばれているということ。誰かに「help me、助けて、手伝って」と言われること。自分が誰かの意識の宛先になっている、求められているわけだから。「俺でもええのか?」と。自分がここにいることの意味を人から教わる、プレゼントしてもらうわけです。こんなに有難いことはない。

    だから「表現」とは違う意味で「応える」っていうのは嬉しいよね。年を重ねるとね、それが高じてくるんですよ。年寄りって人が喜んでいるのを見るのがものすごく嬉しいんです。人が喜んでるのを見て自分も喜ぶという喜び方は、人間の「喜び」のものすごく大事な特徴のひとつだと思います。

    横道にそれてもいい

    —確かに、人が喜ぶ姿を見て自分が喜べるのは素晴らしいことですが、その一方で誰もがそのような余裕を持ちにくい世の中になってきている気もします。

    鷲田:労働環境が厳しいのは確かです。20世紀のうちは、日本の誰もが先進国の仲間入りをしたと思っていたし、成長から成熟に向かう時期だと思っていた。そんな時に、まさか「貧困」と「格差」が時代のキーワードになるなんて思いもしなかった。ちょっと今の状況ひどすぎます。人としての最低限の誇りが蔑ろにされている状況に僕には思える。

    端的に言うと「お前の代わりはいくらでもいる、お前は要らん」という状況。僕らの社会は、試験が普遍化した社会です。保育園から試験があるし、会社に入ってからも出世のための選抜があり、定年退職しても再就職のための試験がある。人生最後まで試験。誰かを選ぶということは、誰かを選ばないということ。不合格、あなたは私たちの組織に必要ない、相応しくないと言われることです。

    なかでも、人間にとって一番大事な経験は、職業に就くことです。職業に就くということは大人になるということ。自分のことは自分でやる、周りの人のことも自分が支えるということを、職業を通じて経験する。しかし、その大人になれるチャンスが狭められている、乏しくなっている。自分がここにいることに自信を持てること、喜びを感じられることが人間のプライド。そういうプライドを持つ可能性をここまで削ぎ落とされた社会ってひどいですよね、先進国として。

    —私たちもまさしく同じ危機感を持っています。この本で取材した方々の中にも、就職活動がうまくいかなかったという方もいらっしゃいましたが、だからこそ新しい仕事を生み出せたり、複数の仕事を持つことで、自分にしかできない働き方をつくり出せた、そういう人たちもいます。

    鷲田:ひとりで複数の小商いをする若い人が増えているようですね、これからの時代の「働く」はこういうカタチなのかもしれません。でも、実は江戸時代まではそれが当たり前だったんですよ。例えば、朝は豆腐を売って、昼は襖を張って、夕方は露店を出して。

    本来、仕事というのはネットワークをつくることだと思うんです、人と人の。だって人間はひとりじゃ何もできないから。商売をするにしても買ってくれる人、売り物を作ってくれる人、そのための道具を作ってくれる人が必要。だから、あるひとつの仕事を始めるということは、ものすごく多くの人のネットワークを、自分を交差点にしてつくる、ということなんですよ。

    だから、小商いをいくつも持つ江戸時代の働き方は、ネットワークが何層にもあるということ。それが一番強い。ひとつのネットワークが壊れても、別のネットワークで生きていけるから。でも今はもし大企業に勤めてしまうと、ひとつしかネットワークが持てない。それは確かに自分で紡ぎだすより強固なネットワークかもしれない。でもそこから降りたらゼロになってしまう。例えば、定年退職の一番の変化は、誰も自分に言い寄ってこなくなること。電話もかかってこない、ご機嫌伺いもこない。ものすごく強固なネットワークだけど、いずれそこから外される。それに比べて小商いというのはネットワークが財産で、いろんなネットワークを同時並行的に持てるんです。

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    個人的な感想として、小中学校時代に秀才だったような人たちは、僕の歳になってくると貧相に見えます。鉄鋼や銀行に入って偉い部長になったとしても、会社から外されたら終わりじゃないですか。あるいは、可哀想だからと天下り的に次のポストを与えられて。自分が必要とされているというより、この会社のこの地位の人だから、というふうにしか扱われないから。

    それに比べると、出来の悪い不良やいかがわしい友達がたくさんいた連中は、校外にも仲間がいたり、学校が終わっても塾に行かず喫茶店に溜まっていたり、サーフィンやバイクといった趣味の仲間がいたり、子供の頃から何重もネットワークを持っている。だから一本くらいアイデンディティが潰れたってそんなに大したことじゃないんですね。違うネットワークの仲間が助けてくれるし、乗り換えがいくらでもできる。そういう連中は定年を迎えても深刻に受け止めてなくて「釣り仲間とたっぷり時間とれる」とか言っているし、恰幅がよくて貫禄がある。「自分がここにいていいのだろうか?」みたいな問いが出てこない、そもそも問い自体がない。だから、横道にそれるってことは絶対に歳を取った時に得になるんです。そういう意味では、勤務ではない場での付き合いの方が人を本当の意味で支えてくれるな、という感じがありますね。だから「ネットワークをつくる」って考えたらわかりやすいんじゃないかな、これからの仕事は。

    後編に続く

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