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ファッションデザイナー、豊嶋 慧。何も持たない青年が、パリのランウェイを任されるまで

欧州在住のライター・編集者陣が、各都市で活躍する在住日本人・現地クリエイターの「ワークスタイル」「クリエイティブのノウハウ」をお伝えします。日本人とは異なる彼らの「はたらく」ことに対する価値観、仕事術が、あなたの仕事のインスピレーションソースになるかもしれない!?

    Profile

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    角尾 舞(つのお・まい)

    「デザインを伝える」ことを目的に、執筆や展示、PR企画等を行う。慶應義塾大学・環境情報学部卒業。メーカー勤務を経て、LEADING EDGE DESIGNに入社。2013年から16年3月まで、東京大学生産技術研究所山中研究室のアシスタントデザイナー。学内ギャラリーで開催される、研究展示の共同ディレクションを行った。近年の仕事に「はじめての真空展 ― お弁当から宇宙まで」(2016年6〜7月・東京大学)の展示ディレクション、「日経デザイン」「日経クロストレンド」等での執筆など。スコットランド・エディンバラ在住を経て、現在は東京を中心に活動中。

    作品集と降り立ったパリ

    パリ8区、高級ファッションブランドが立ち並ぶエリア。ファッションデザイナーの豊嶋 慧(とよしま けい)さんが働くアトリエも、この一角にある。豊嶋さんはこれまで、ランバンや、メゾンマルタン・マルジェラ、コーチなどの世界的メゾンを渡り歩き、昨年、ハイダー・アッカーマンのメンズラインのヘッドデザイナーになった。

    これだけ聞くと「きっと、海外の有名な学校を卒業したんだろう」「日本でも評価されていたから、海外でも成功したんだろう」と思う人もいるかもしれない。しかし、彼の場合は違う。

    デザイン画を描く豊嶋さん。様々な資料を元にアイデアを膨らませていく。

    デザイン画を描く豊嶋さん。様々な資料を元にアイデアを膨らませていく。

    豊嶋さんが渡仏したのは、25歳のとき。ファッションデザイナーとして働いた経験もなければ、海外の服飾大学の卒業生でもない。さらには、フランス語も英語も話せなかった。彼が持っていたのは、ワーキングホリデービザと、二冊の作品集だけ。キャリアはずっと、持ち前のキャラクターと努力で切り拓いてきた。

    ハイダー・アッカーマン2018年秋冬コレクションのための、豊嶋さんによるデザイン画

    ハイダー・アッカーマン2018年秋冬コレクションのための、豊嶋さんによるデザイン画

    豊嶋さんは、武蔵野美術大学・空間演出デザイン学科の出身で、洋服を作り始めたのも、ファッションデザイナーになる明確な意思を持ち始めたのも、卒業後のことだった。大学の成績は普通だったという。

    卒業後は就職せず、海外渡航の資金集めのために、アルバイトをしていた。当時について、以下のように心境を話す。

    「大学の課題の評価は全然よくなかった。でも、外部のコンペでは賞をもらえた。だからそれと同じで、もし日本で評価されなくても、絶対に自分と同じ感覚を持つ人が、世界にはいると思っていて。パリがダメでも、ロンドン、ニューヨーク、ミラノ……って世界中、作品を持って歩いて、一番評価されるところに自分から行くつもりだった。」

    毎晩、アルバイトから帰宅するとミシンを踏み、ファッションについてのリサーチを重ね、作品を増やした。分厚い作品集が2冊できたとき、ワーキングホリデービザを申し込んだ。今から約10年前のことだ。両手に大きなバッグを抱えて降り立った、パリのシャルル・ド・ゴール空港。そこから見上げた空は、快晴だったそうだ。

    メゾンの門戸をこじあける

    パリに到着したものの、当時の豊嶋さんにはツテもコネもない。ランバンやメゾンマルタン・マルジェラに憧れていて、どちらかで働きたい気持ちはあった。しかし、有名ブランドの門戸は、そう簡単には開かない。有名な服飾系大学から、インターンシップとして派遣されたわけでもない。日本で、ファッションデザイナーとしての経験があるわけでもない。どこの誰かもわからない、さらには言葉も通じない人物を、大手ブランドがいきなり受け入れてくれるはずもなかった。

    しかしとにかく、大手ファッションブランドにアプローチした。「デザイナー職は、言葉ができないと厳しいだろう」と考え、パタンナー職から応募。履歴書と作品を、ひたすらメゾン宛に送り続けたが、反応はない。担当者の連絡先もわからない。それでも豊嶋さんは、次の一手を考え続けた。

    ある日、ランバンのカスタマーサポートに問い合わせをし、中で働く人のメールアドレスを入手した。インターネットで人事らしき人物の氏名を探し、手に入れたアドレスのルールと組合せ、「パタンナーを募集していると聞きました」と、出まかせのメールを送り続けた。褒められた方法ではないかもしれない、もはやスパムメールと変わらないのだ。何百通と送ったうちの1通が運良く引っかかり、返信が来た。偶然にも、ランバンはパタンナーを探していたのだった。2冊の作品集を手に、初めてメゾンの門戸をくぐり、面接に臨んだ。パリ到着から4か月目のことだった。

    そして、ランバンへ

    パリ市内にて。到着した年は大寒波で、震えながら屋外の無線LANでメールを送っていたという。

    パリ市内にて。到着した年は大寒波で、震えながら屋外の無線LANでメールを送っていたという。

    面接までたどり着いたはいいが、英語もフランス語も、まだほとんど話せない。面接官に作品集を手渡し、ページをめくるのを、じっと黙って見つめていた。これが、豊嶋さんの作戦だった。

    「『無口な日本人アーティスト』を装って、全てプランニングし、プレゼンテーションすることにした。しゃべれなくても、こっちがイニシアチブを持てば、なんとかなるはずだから。」

    面接官の手の動きに合わせて、決まったページで、決まったセリフを言う。順調に思えたが、最後のページまでめくったところで、面接官から言われた。「あなた、パタンナーの経験ないでしょ」。案の定、パタンナー職には通らなかったが、作品集の評判は良かった。それを目にしたデザイナーの心をつかみ、ランバンでデザインアシスタントとしてのチャンスを得ることができた。

    「僕の仕事は全部自己流。デザインの仕方も、ポートフォリオの作り方も、会社から仕事を取る方法も。そういう風に、人生をデザインできることが、自分の強みだと思う。」

    当時、ランバンのアーティスティック・ディレクターだった、アルベール・エルバス氏と。(写真提供:Kei Toyoshima)

    当時、ランバンのアーティスティック・ディレクターだった、アルベール・エルバス氏と。(写真提供:Kei Toyoshima)

    就職後は、がむしゃらに働いた。最初に任されたのは、ポケットのサンプル作りや、シーム(縫い目)のデザイン提案。これまで、やったことのないことばかりで戸惑った。遅ければ深夜3時まで働き、守衛さんに追い出された。「人の2倍働いて、人と同じくらいのことしかできなかった」と豊嶋さんは当時を振り返る。土日も家で縫い続け、上司から頼まれれば、山ほどサンプルを作って提案した。

    ワーキングホリデービザは一年のみ。更新できるかも、定かではなかった。

    「僕は有名なファッションの大学も出ていないし、バックグラウンドも何もない。だからとにかく、今できる経験を全部やらなきゃ、絶対、結果を出さなくちゃと思っていた。」

    提案したほとんどのアイデアはボツになったが、袖のアクセサリーが一つ、採用された。渡仏一年目にして、ランバンのコレクションに提案が使われたのだ。

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    「ブランド」に頼らない

    「ブランド」に頼らない

    ビザの関係で帰国が決まり、ランバンを離れることになった。帰国直前、もう一つの憧れだったメゾンマルタン・マルジェラに応募したところ、採用。一年間で、目標としていた両方のブランドで、職を得た。マルジェラでは、レディースとメンズの両方を経験した。マルジェラ氏本人の服に対する姿勢や、そのエスプリを受け継いだデザイナーたちから、多くのことを学んだという。しかし同時に、大きな違和感を覚えることにもなった。

    メゾンマルタン・マルジェラ時代に手がけた作品をまとめた、自作のポートフォリオ。

    メゾンマルタン・マルジェラ時代に手がけた作品をまとめた、自作のポートフォリオ。

    一時帰国の際に、自身がデザインした服を、全身で着ている男性を見かけたことがあったそうだ。

    「うれしかった。でもそれは、僕が失敗作だと思っていた服だった。日本のマルジェラの人気はすごいから、大したものじゃなくても売れてしまう。買ってもらったその服の価値も、マルジェラの、あのタグにあったような気がした。僕には、メンズファッションの基礎も、テーラードの知識もなかった。それで『マルジェラのデザイナーです』と言っていたら、自分には何もなくなってしまうのではないか、と焦りを感じてしまったんだ。」

    そして豊嶋さんはマルジェラを離れ、また転職活動を始めた。

    マルタン・マルジェラのフォトシューティングのバックステージ(Photo by Kei Toyoshima)

    マルタン・マルジェラのフォトシューティングのバックステージ(Photo by Kei Toyoshima)

    ジャケットやテーラードで、新しいチャレンジができるところで働きたいと考え、選んだのはパリを拠点にする、韓国・メンズウェアブランドの、ウーヨンミ。当時デザインしたコートを、取材日にも着てきてくれていた。4年間、メンズウェアのスキルを磨き、時間ができれば古着を解体するなどして、ファッションの知識を深めた。それでも豊嶋さんの、新しいチャレンジへの意欲は止まらない。次の転職先として選んだのは、コーチ。「ファッションに国境はないはず」という考えから、パリを離れ、ニューヨークへ向かったのだ。

    「チャレンジしなくなったら、生きている気がしない。チャレンジしなくなることが、一番のリスク。」

    全く知らないニューヨークの街、慣れないアメリカ英語。働き方も変わり、友達もほとんどいなかった。新しい環境に戸惑い、これまでとは違う苦労もあったが、少しずつ適応して、いくつかのコレクションを担当。ニューヨークを経験した豊嶋さんは、再度、パリに戻ることに決めた。そして2017年秋、渡仏から約10年で、ハイダー・アッカーマンのメンズラインのヘッドデザイナーとなった。

    ファッションの原体験は「小学校の運動会」

    豊嶋さんには、ファッションの原体験があるそうだ。それは、小学生時代までさかのぼる。クラスで足が一番速かったため、運動会のリレーのアンカーに選ばれたときのことだ。

    「150mを全力で走らないといけなくて、練習のときは、息が続かずくじけることもあった。でも本番当日、家族や応援団の声が聞こえたとき、身体がふわっと軽くなった。何かを『まとった』と感じた。これが多分、僕のファッションの原体験。人を支えるとか、応援するのも『ファッション』の役割なんだと思う。だから僕は、洋服を作っていないときでも、ファッションデザイナーとして生きたい。世界の偉人たちの言葉が、僕を支えてきてくれたように、僕も誰かを支えられる人になりたい。」

    アシスタントデザイナーと、ハイダー・アッカーマンのアトリエにて。

    アシスタントデザイナーと、ハイダー・アッカーマンのアトリエにて。

    夢に対する、そして海外に対する壁は、自分が生み出してしまっているものだ。恥を捨て、失敗を恐れず、自分から壁を取り壊すことで、世界は近くなる。ファッションは、弱い背中を押してくれる声援なのかもしれない。

    「優秀なクリエイターたちと出会ってわかったのは、みんな、ユニークだということ。そして同時に、どんなにすごく見えても、意外と普通の人だということ。だからユニークに生きさえすれば、飛び抜けられるはず。
    僕は、世界ですごいことを成し遂げている人は、元からすごい人なのだと思っていた。でも、そうじゃないっていうことを、自分で証明したい。かつてそういう風に考えていた、僕自身の希望になりたいから」

    ポートフォリオはブランドイメージに合わせて、自分で製本までするという。これは、メゾンマルタン・マルジェラのもの。

    ポートフォリオはブランドイメージに合わせて、自分で製本までするという。これは、メゾンマルタン・マルジェラのもの。

    たった二冊の作品集とパリに降り立ち、情熱とアイデアで、切り開いてきたキャリア。転職するたびに、新しい作品集を作ってきた。ファッションデザイナーとして生きるなかで、豊嶋さんのポートフォリオは、これからも増え続けるだろう。

    ※写真編集(豊嶋さん提供のものを除く): Yusuke Abe

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