『ブラックパンサー』の音声描写は、なぜ白人男性の声だったのか? ADに潜む「当たり前」を問う【前編】

映画を観るとき、私たちは音に加え、画面に映る人物の表情や動き、衣装、風景、場面の変化など、無数の視覚情報を受け取り、それらを組み合わせながら映画を体験している。そんな映画の情報を言葉に置き換え、視覚に障害のある人へ届けるのがオーディオディスクリプション(以下、AD)だ。

一般社団法人Japanese Film Project(以下、JFP)は9月3日、オンライン講座『【JFP日米交流】映画のアクセシビリティ最前線:日米の作り手と考える、音声描写がもたらす創造的可能性』を開催。日米でADの制作やナレーション、研究に携わる実践者たちが登壇し、ADがどのように映画体験を形づくるのか議論した。

本稿では、当日の内容を前後編に分けてレポートする。前編ではADは、完成した作品にあとからつけ加える「サービス」なのか、それとも作品そのものの一部なのか。何を描写し、何を描写しないのかは、誰が決めるのか。ADのあり方や役割について語られた。

後編はこちら

  • 取材・テキスト:ISO
  • 編集:吉田薫

INDEX

ADとはサービスか? 営みか?

AD(オーディオディスクリプション)とは、人物の動きや表情、衣装、場面転換といった、音だけではわからない映画の視覚的要素を、主に台詞や重要な音の合間に言葉で描写するもの。日本では長らく「音声ガイド」と呼ばれてきたが、美術館などで作品の背景を解説する音声ガイドとの違いを明確にし、視覚情報を言葉で描写するという役割を的確に示すため、JFPでは「AD」と呼ぶことを推奨している。

この日の議論で語られたのは、単に「どうすれば見えない情報を言葉で伝えられるか」ではない。ADを誰がつくり、何を伝え、何を伝えないのか。そもそもアクセシビリティは、完成した作品に後から加えられる「サービス」なのか。それとも映画をつくり、届ける営みそのものの一部なのか。

インディペンデント映画や美術館などでキャプションやADを手がけるシェリル・グリーンは自身の仕事を語るなかで、その問いを象徴するような言葉を口にした。

シェリル:私は自分のことを『アクセス・アーティスト』と呼んでいます。メディアのアクセシビリティそのものが、とても創造的な実践だと思っているからです。アクセシビリティを作品や表現の一部だと考えれば、配給会社や映画祭が費用を払ってあとからつけ加えるだけのものではない。アクセシビリティが作品の一部にならない限り、作品は完成しない、と考えてもいいんじゃないかと思っています。

シェリル・グリーン:アクセス・アーティスト/アクセシビリティ制作者。MFA(美術学修士)およびMS(理学修士)の学位を持つシェリル・グリーンは、障害や慢性疾患を抱える「アクセス・アーティスト」として、インディペンデント映画や美術館におけるキャプション(字幕)やオーディオ・ディスクリプションの制作に取り組んでいる。彼女は、2023年のRockwood Documentary Leadersフェロー、2020年のDOC NYC New Leader、2017年のAIR New Voicesスカラーに選出された。また、トーマス・リードと共に、視覚障害者の視点を重視し、“文化的対応型オーディオ・ディスクリプション”に関するパネル登壇や、ワークショップ・研修の共同進行を頻繁に行っている。

「ADがある」だけで、誰でも映画にアクセスできるのか?

ADが作品に用意されていれば、その映画は「アクセシブル」だと言えるのか。ファシリテーションを務めた、アクセシビリティについて研究・実践する田中みゆきはまず、アメリカの映画においてアクセシビリティがどのように築かれてきたのかを紹介。その根底にあるのは、アクセシビリティを「特別な配慮」ではなく、社会や文化に参加するための権利としてとらえる考え方だ。

1973年の「リハビリテーション法504条」(※)、1990年の「障害のあるアメリカ人法」(※)など、障害者の権利を保障する法制度が整えられてきたが、それは障害当事者自身による権利運動で勝ち取ってきたものだった。テレビでは1990年に開始されたADの実践は、やがて映画館にも広がっていくこととなる。

※アメリカの連邦法で、障害を理由とする差別を禁止した最初期の公民権規定。1973年に成立したが、施行規則は長く発布されなかった。1977年、障害当事者らが連邦政府の庁舎を占拠する抗議運動(504座り込み)を行ない、同年に規則が署名された。

※人種、肌の色、性別、出身国、年齢、宗教による差別を禁じる他の公民権法と同じように、障害を理由とする差別を禁止する。

だが、ADが制作されるようになったからといって、すぐに誰もが利用できたわけではない。ADを聴くためには専用機器を借りる必要があるが、どの映画館が対応しているのか情報がまとまっていなかったり、館内のどこで機器を借りられるのかわからなかったりする。スタッフの認知不足もあれば、機器が故障しているケースもある。「設備はあるが、使えない」という状況だ。

こうした状況に対して視覚障害者が大手映画館チェーンへの訴訟を起こすなか、2016年には米司法省が映画館に対し、ADつきで配給された作品ではADを提供すること、必要数の正常に作動する機器を備えること、上映前・上映中のトラブルに対応できるスタッフを配置することなど、具体的な義務を規定した。田中はここで、「利用可能」であることと、「アクセスできる」ことは同じではないと指摘する。

田中:法律があって、作品にADがつくられて、映画館に機器があっても、それが実際の映画体験につながらなければ、制度上の『利用可能性』が実質的なアクセスにはつながっていきません。

田中みゆき :キュレーター / アクセシビリティ研究 / 社会福祉士・精神保健福祉士 。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。2020年より早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程にて、障害のある人の主体的鑑賞行為を引き出すアクセシビリティについて研究を行っている。2022年ニューヨーク大学障害学センター客員研究員。主な書籍に、「誰のためのアクセシビリティ? 障害のある人の経験と文化から考える」(リトルモア)、「ルール? 本 創造的に生きるためのデザイン」(共著、フィルムアート社)などがある。2026年4 月より港区立みなと芸術センター教育・研究グループ長。

またADのあり方を変えたものとして、ストリーミングサービスの普及にも言及。映画館でADを利用するためには「ADのある場所を探し、そこまで移動し、その場で聴く」必要があった。一方、ストリーミングでは自分の端末からADつき作品を探し、音声設定からADトラックを選択できる。田中はこの転換を、ADが「その場の体験に付帯するサービス」から、「作品と一緒に保存・複製・配信できるメディア資産」へ変化したと説明する。

一方、ストリーミングにも課題は残されており、そのひとつが「パススルー」の問題だ。アメリカの放送・ケーブルでは、ADつきで受け取った番組について、そのADを削除せず視聴者まで届けることが規則化されている。

しかし、ストリーミングには同様のルールが一律に適用されておらず、同じ映画であっても、プラットフォームによってADがある場合とない場合がある。こういった状況を踏まえ、ADは単に「つくる」だけでなく、それをどう「流通」させ、「維持」するのかまでを視野に入れてこそ、本当の意味での「アクセシビリティ」を考えることだ、と田中は語る。

「何を描写するか」は、誰が決めるのか。文化に応答した翻訳

ADがつくられ、実際に利用でき、作品とともに流通するようになったとして、果たしてそれで十分なのだろうか。

ここから議論は、「どんなADがつくられるべきなのか」へと移っていった。

田中が提示したのは、「何を描写するのか」「何を描写しないのか」「どんな言葉を使うのか」「それを誰が決めるのか」という四つの問いだ。映像は一度に多くの視覚情報を伝えられるが、音声として使える時間には限りがある。そのためADでは、無数にある情報から「何を伝えるか」を必ず選択しなければならない。

田中:視覚情報のなかから何を選んで何を伝えるかという選択が必ず関わってきます。そして選択するということは、書き手が解釈するということです。ADによる描写が中立であることはなく、選択と解釈は避けられない。そこには書き手の価値観や文化が入り込んできます。

そこで重要になるのが、「エイブリズム」という視点である。特定の身体や能力を「正常」とし、そこから外れる身体やあり方を劣ったもの、欠けたものと位置づける考え方や社会構造を指す。

ADの文章にも、何を「当たり前」として描写せず、何を「特別なもの」として言葉にするのかという判断にエイブリズムが埋め込まれる可能性がある。特にそのリスクがあるのが文化や人種の表象である。例に出されたのが、今回の登壇者であり、ADの全盲ナレーターとしてPodcastを通じた発信も続けるトーマス・リードが自身の番組で行った『ブラックパンサー』(2018)のAD批評であった。

『ブラックパンサー』は、ブラックカルチャーやブラック・アイデンティティと密接につながる作品でありながら、ADのナレーターは白人の英国人男性のように聞こえるという。また劇中で登場する航空機のデザインはアフリカのマスクをモチーフにしているが、そういった情報はADでは「必要でないもの」として取り上げられていない。

そのように文化的背景と齟齬のあるADがつくと、それを聞く人は晴眼者が見たものとまったく違う世界を体験することになる。だからこそ、ADを手がけるシェリルは、仕事において「文化的に応答する」ことを重視しているという。

シェリル:文化的に応答するということは、作品の文化的背景をリサーチし、重要な要素を見落とさないことだけでなく、自分自身の文化的背景を認識することでもあります。私は、自分自身の主観的な経験や世界観を通して映画を見ているからです。そしてもし、私がその文化的背景を描くのに適任でなければ、ほかの人に仕事をお願いするようにします。

アメリカの標準的なADでは、白人については人種を特定せず単に「人」と描写する一方、白人ではない人物については人種や民族、肌や髪などを詳しく描写する傾向があるとシェリルは指摘する。それは結果として、「白人が標準的な人間であり、それ以外の人々がそこから派生したバリエーション」であるかのようなメッセージを生みかねない。

シェリル:私は、そうした白人を標準とする規範を拒否します。人が特定の人々や文化について映画や芸術作品をつくるのには理由がありますし、俳優のキャスティングも意図を持って行なわれています。そのことは観客にも伝えられるべきです。

トーマス・リードによるPodcast「Reid My Mind Radio」

シェリルは、自身がADを担当する作品では出演者に自己記述のフォームを渡し、自分についてどんな言葉を使ってほしいのか、あるいは使ってほしくないのかを尋ねるという。大切なのは、描写される本人がその表現を心地よく感じられること、そして観客にとって有益な情報になっていることだからだ。

また、同様の問題をトーマスも指摘する。晴眼の観客であれば、自分自身の経験を映画に持ち込み、画面にあるさまざまな要素のなかから何を重視し、どう解釈するかを自分で決められる。ならば視覚障害のある観客にも、できる限り同じ機会が与えられるべきではないか。

トーマス:何かを描写することと同じくらい、何かを描写しないということも重要です。たとえば肌の色、人種、民族、ジェンダー、障害など、アイデンティティに関わる情報は『プロットに関係すると判断された場合だけ描写する』というAD制作のガイドラインがありますが、本当にそうでしょうか。本来画面にはもっと多くの情報があるのに、それが伝えられていない。視覚障害のない人が自由に映画を解釈できるなら、視覚障害者にも同じ機会があるべきだと思います。

トーマス・リード:ボイスオーバー・アーティスト/ADナレーター
フリーランスのオーディオ・プロデューサー、ボイスオーバー・アーティスト、ADナレーター、コンサルタント、権利擁護活動家。フリーランスのADナレーターとしてNetflix、HBO Max、Hulu、PBSなどのプロジェクトに携わってきた。さらに、インディペンデント映画の制作者や映画祭へのコンサルティング、ワークショップの共同運営、音声解説やコンテンツのアクセシビリティに関するパネルディスカッションへの参加など、多岐にわたる活動を行っている。

さらにトーマスは、性的な場面や暴力などをAD制作者が「配慮」の名のもとに和らげたり、描写しなかったりすることに対する問題も提起した。

トーマス:そういった場面を描写しないという判断がなされることは、社会で視覚障害者がどう見られているかを表していると思います。視覚障害のある成人は子どもではありません。なぜ視覚障害者だからといって検閲する必要があるのか。そうした内容から誰かに守ってもらわなければならない子どもたちではない。もしAD制作者がそのような場面を描写したくないのであれば、観客のアクセスを制限するのではなく、自分がその仕事を降りるべきです。

前編では、ADは「サービスなのか、作品の一部なのか」という議論にはじまり、何を描写し、何を描写しないのかの決定についてまでが語られた。続く後編では、当事者がAD制作に携わる意義や、AD普及のために必要な根本的な意識の変化について議論する。

視覚障害者がADの「受け手」から「つくり手」へ。当事者と共につくる映画のアクセシビリティ【後編】

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