名物ラジオアナに聞く「言葉の極意」。斉藤一美が30年追求する描写力の裏側
- 2019/08/23
- SERIES
歴30年のいまもなお奮闘し続けるラジオアナウンサーの言葉から、「自分らしい表現」と向き合うためのヒントに迫ります。
- 取材・文:原里実(CINRA)
- 撮影:西田香織
Profile
斉藤一美
1968年、東京都出身。文化放送アナウンサー。新入社員として入社後、4年目の1993年から『斉藤一美のとんカツワイド』パーソナリティーを務める。1997年から20年間、スポーツ実況を担当。2017年からは、報道番組『斉藤一美 ニュースワイドSAKIDORI!』に出演中。
https://twitter.com/joqrkazumi
起きてから寝るまでひたすら、ニュース、ニュース、ニュース
—アナウンサーのみなさんは、放送以外の時間をどんなふうに過ごされているのですか?
斉藤:担当する番組によって、起きる時間寝る時間、時間の使い方、まるで違ってきます。いまは報道番組担当なので、朝はなるべく早く起きます。朝のワイドショーをわっと見つつ、新聞に目を通す。ラジオ番組も聴きます。聴きながらラジオ体操します。体を目覚めさせて、大体朝の10時過ぎくらいに家を出ます。
出社したら新聞各紙をチェックします。さらにはニュースサイトをひたすら見ます。それから番組で取り上げるニュースの下調べをしていくと。あっという間に放送が始まる午後3時半になっちゃいますね。時間がいつも1、2時間足りないなって思うんです。
—ひたすらニュースを追いかけているんですね。
斉藤:ずっとニュースですね。起きてから寝るまでニュース、ニュース、ニュース。平日の放送前、毎日午後3時29分までは、ひたすら体にニュースを取り込みます。食事にたとえるなら、味わう前に詰め込んでる感じ。
『SAKIDORI』も3年目に入ってから、だんだん「味わいの違い」がわかりかけてきました。ニュースの当事者たちの考えや内面に、放送前でも想いを馳せる余裕がようやく出てきたっていうんですかね。
リスナーの頭のなかのキャンバスに絵を描きたい。その絵描きになりたいな、と
—ニュース番組の前は、長らくライオンズのプロ野球中継番組『文化放送ライオンズナイター』(以下、ライオンズナイター)で活躍されていましたね。選手の一挙手一投足を逃さない「完全描写」にこだわるようになったのは、なぜだったのですか。
斉藤:ラジオには映像がないので、リスナーは耳からしか情報が得られない。だから「ひょっとしたら自分の言葉で、聞き手の頭のなかのキャンバスに絵を描けるかもしれない。その絵描きになりたいな」って思ったんです。
たとえば、「投げた、打った、ショートゴロ、取った、一塁送球、アウト」。当時の実況では、これだけで済まされている場合も多くありました。でも実際はゴロひとつとっても、打球の飛び方は多種多様。地を這うように細かいバウンドなのか。高く弾んでるのか、弾んでるならどこらへんまでか。「レフトスタンドへホームラン」といったって、レフトスタンドって広いんですよね。
だからこれはまだ細かく描写する余地があるんじゃないか、それがラジオのアナウンサーなんじゃないのかと。
短い時間で伝えられる情報量を増やすために、ひたすら滑舌を磨きました
—試合はどんどん展開していきますから、限られた時間のなかですべてを伝えるのは大変ですよね。
斉藤:そうですね。細かく語れば語るほど、言葉数は多くなります。ボールが動いている間に、「投げた、打った、ショートゴロ、左に動いてバックハンドすくい上げた、ボールを右手で握る、踏ん張った、振り返る、一塁送球、ギリギリ、ファースト伸びた、取った、アウト」。細かく言うほど、早口になる。情報量を増やしつつも、聞き取りやすさを損なってはいけないので、ひたすら滑舌を磨きました。
「野球の放送って、テレビは解説者、でもラジオはアナウンサーのものなんだよ」という言葉を、いまはライオンズのゼネラルマネージャーになられた渡辺久信さんからもらったことがあるんです。「わが意を得たり」、そう思いました。それからずっとある意味、唯我独尊で(笑)、自分の技を磨き続けてきました。
選手が日頃何を考え、どんな練習を積み重ね、どんな人生を歩んできて、いま球場に立っているのか?
斉藤:あとは野球そのものが、もちろんわかっていないといけない。ひたすら見続けて勉強していると、1年目よりは2年目、2年目よりは3年目とだんだん知識が増えていきました。20年目を迎えてもなお新たな発見があったりして、奥深く、面白かったですね。
—選手一人ひとりへの取材も、徹底的に行われていたそうですね。
斉藤:選手が日頃何を考えて、どんな練習を積み重ねて、もっといえばどんな人生を歩んできていま球場に立ってるのか。それをしゃべりに活かすためですね。
……野球マンガの『巨人の星』に出てくる、星明子というキャラクターを知ってますか。
—主人公の星飛雄馬の、お姉さんですよね……?
斉藤:そうです。いつも飛雄馬を木陰から見てる。あれが取材の基本だと、ぼくは思ってます。
取材では「どうしても」という質問だけ。練習のための貴重な時間を割いてもらうわけですから
斉藤:選手の仕事ぶりをつねに見つめ続けていると、どこかでパーンと心の扉が開く瞬間があるんですよ。かかる時間は選手によって違いますけれど。第一歩は、日々の挨拶です。「おはようございます」「お疲れさまでした」。まずは「いつも見ているよ」って、顔を見せるところから。
—見つめ続けることで、取材で聞きたいことも自然と出てきそうですね。
斉藤:まさにそうです。選手の動きを毎日見ていると、昨日との小さな違いに気づける。その気づきが、質問の糸口になります。練習のための貴重な時間をもらうわけですから、「どうしてもこれは訊かないと気が済まない」という質問だけ。こちらにその必死さがあれば、多少忙しくても相手はしてくれます。
スター選手の周りでは、一人二人が取材を始めたのをきっかけに、囲み取材が自然発生的に起こったりもします。でもそれよりやっぱり、一対一の状況をいかに多くつくれるか。ほかの誰も訊いていない、ぼくだけのネタこそ、リスナーにもきっと響く。だからしつこさ、粘り強さは必要でした。
……とはいうものの、取材を始めた頃は失敗ばかりでした。何十回、何百回と繰り返して、ちょっとは選手に信頼してもらえるようになったのが、10年目、11年目くらいだったかな。
アナウンサーになるのが夢だった。叶えさせてもらった以上、死ぬ気で頑張らないと失礼です
—本当に長い時間をかけて、関係をつくっていかれたんですね。
斉藤:選手の人となりが深く知れたら、それは実況に必ず活かされます。プレーが動いてないときに、「武隈祥太というピッチャーはすごく照れ屋なんだけれどもじつはアツい心を持っていて、こんなエピソードが……」なんてことも話せる。
それを積み重ねていけば、今度は「5年前のあの日、彼がこんなことを言ってました」とも言えるようになる。その状態になれたのが、実況アナウンサーとしての最後の7、8年でしたね。そのあたりからリスナーの反応も、また一段二段変わったような気がします。
—野球を知る、選手を知る、アナウンスの技術も磨く……粘り強く立ち向かい続けられた原動力はどこにあったんでしょう。
斉藤:それはひとつしかないです。アナウンサーになることが夢だったからです。だからいくら大変なことがあっても、「お前はなりたいものになれたんじゃないのか」「なりたいものになれない人がどれだけ多いかわかってんのか」と。夢を叶えさせてもらった以上は、死ぬ気で頑張らないと失礼です。その気持ちがぼくの力になってます。
イメージどおりのキャッチフレーズができたら、反応がなくても使い続ける。思いつきを人に押しつけちゃう感覚です
—斉藤さんは、選手へのキャッチフレーズやあだ名もたくさんつけられていましたね。どうやって考えていたんですか。
斉藤:一番大事なのは、無理くりつくらないことですね。いいのが思い浮かばなかったらボツにする勇気が必要。反対に「これはイメージどおりだ」というのができたら、反応がなかったとしても使い続ける。「この人がこう見えた」という思いつきを、人に押しつけちゃうような感覚ですね。
たとえば、松井稼頭央さん。いまのライオンズの二軍監督です。あるとき取材現場で、上半身裸の彼を間近で見る機会があって。ものすごいんです、筋骨隆々で。筋肉ってこんなにつけられるんだ、っていうくらい。さらには精悍な顔立ちで、ぼくはね、彼がセクシーに見えたんです。そこで「セクシー」と、彼のポジションの「ショートストップ」、ふたつをつなげて「セクシーショートストップ」っていうあだ名をつけたらこれがハマりました。
あとね、いま楽天のピッチングコーチを務められている、当時ライオンズのピッチャーだった石井貴さん。笑うとすごくかわいいんだけど、角刈りで、試合中はずっとバッターを睨んで、わざと怖い顔をしてるような人。ある日、ピッチングコーチの杉本正さんに「貴はマウンド上でキャッチャーのサインが出るときに、両方の腰に手を当てて『仁王立ち』をしていると好調。片方でも腰から離れてたら、だいたい打たれちゃうんだよね」と聞いて、それでつけたあだ名が「投げる金剛力士像」。
このふたつは特に、いまもライオンズファンに気に入ってもらえているみたいです。そう考えると、これも取材の力じゃないですか。取材で感じたことを、そのまま言葉にするんです。
ニュースは野球と全然違った。20年間の積み重ねをチャラにするって、結構きついです
—野球の実況で得たものが、現在のニュース番組にはどう活かされていますか?
斉藤:うーん……おそらくあまりないですね。ですから四苦八苦してました。特に最初の2年は。おそらくぼくが苦しんでいることはリスナーにもバレてるんだろうなぁと思いながら、じくじたる思いで過ごしてきました。
実況アナウンサー時代のぼくは細かい描写をする代わりに、感情は全面に出す、非常にやかましい放送をしていたんです。でも上司から、「ニュースでは感情を殺せ」と言われてしまった。あまり感情的なニュースキャスターっていないですからね。
でも殺し方がわからなくて。のっぺらぼうのしゃべりになってしまいました。20年間やってきたことをチャラにするって、結構きつかった。随分と精神的に参りましたね。