Column 連載

17音の「ことば」から広がる風景

第2回:俳句は17音で宇宙を詠める

堀本裕樹(俳人)

国語の授業や受験とは関係なく、俳句に触れたことってありますか? 決して古いものだけではなく、今も新しい句が次々と生み出されています。17音という制限があるからこそ、作者の一言一言に対するこだわりが読者の想像をかき立てる俳句。コピーライターや編集者が発想の参考にすることもあるのだとか。この連載は、又吉直樹氏と共に『芸人と俳人』を著した堀本裕樹氏が、自らの手で俳人という仕事を切り拓いてきた道を辿ります!

プロフィール

堀本裕樹
堀本裕樹

1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。「いるか句会」「たんぽぽ句会」を主宰。第36回俳人協会新人賞、第2回北斗賞など受賞。著書に『十七音の海 俳句という詩にめぐり逢う』、『富士百句で俳句入門』、句集『熊野曼陀羅』、小説『いるか句会へようこそ!恋の句を捧げる杏の物語』、ピース又吉直樹さんとの共著『芸人と俳人』など。又吉さんとのメールマガジン『夜の秘密結社』も好評配信中。創作の傍ら、俳句の豊かさや楽しさを広く伝える活動を行う。

「君みたいな人が芸術家になる」

敬愛する作家の中上健次と白熱の対談をした、宗教哲学者の鎌田東二先生にお会いしたかった。そんな動機で入ったのが「國大俳句」という俳句サークルでした。ちょうど鎌田先生が俳句サークルの師範をされると聞いたので、入ってすぐに会えるかもしれないと思ったんです。鎌田先生から中上健次の息吹を感じたいというのと、散文の力をつけるために俳句の勉強をしようと意気込んで入部したものの、結局は酒ばっかり飲まされて(笑)。あまり句会はしなかったですね。鎌田先生のお知り合いの画家・横尾龍彦さんのアトリエで俳句の合宿を開いたりもしました。なにをするのかなと思ったら、やっぱりみんなで料理を作って酒を飲む(笑)。朝からビールを飲んで、アトリエの近くにある秩父の神社にお参りしたりもしました。鎌田先生は宗教哲学者だから、法螺貝とか石笛を吹き鳴らしていましたね。僕も石笛を持っていたので、一緒に鳴らしたりしました。

そんな風に、飲み会ばかりのサークルではありましたが、それでもやはり、いつかまっとうな小説を書きたいとか、文章を書いて食べられるようになれれば、といつも心のどこかで思っていましたね。今でこそ、そういう文筆の仕事をしているけれど、そのときは本当に夢だったんです。遠くにあって届かないものでした。ただ、いつかは、「ことば」で食べていきたいっていう気持ちはすごく強く胸のなかにありました。

鎌田先生になんとなく相談しても、「堀本くんはこれからどうなるかな」という感じで、確信的に「なれるよ」とか「努力したらうまくいくよ」というようなことは言われなかったですね。それは、鎌田先生なりの思いやりだったと思います。ところが、その合宿にいた横尾龍彦さんは、なぜか僕の横顔をじっと見つめながら、「君みたいな人が芸術家になるんだよ」とおっしゃったんです。ちょっとびっくりしましたね。「君の顔は片側から見ると老成しているけど、もう一方は純粋な少年みたいな顔をしている。ヨーロッパにはたまにそんな顔つきの青年はいますが珍しいです」と。画家の鋭い目というのは怖いなと思ったのを覚えています。そのときの真意はわからないけれど、ずっと心に残る言葉で不思議に励まされましたね。

鎌田先生から俳句について教わったのは、「俳句は宇宙を詠める」ということ。俳句って17音で、世界一短い詩だけれども、なんでも詠める。たとえば、夏の季語である「蟻」なんていう本当に小さな生き物も詠めるし、夏の積乱雲である「雲の峰」なんていう大きなものも詠める。月や星や風や海や宇宙が詠める。俳句は「なんでも表現できる」と、その一言で教えていただきました。
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小説家を目指すも、原稿用紙10枚の作品が精一杯だった学生時代

俳句サークルに入ってもなお、小説家になりたいという夢は変わらずに抱いていました。文芸部にも入部していましたが、誰かがきちんと小説の書き方を教えてくれるわけではない。だから、自分なりに文章修行をしたわけです。その修行の一つに、これはと思った小説家の作品を書き写すというものがありました。芥川龍之介や梶井基次郎、宮本輝さんの小説を書き写すことで、文章修行をしていたんです。

書き写しながら、作家の息づかい、文体、読点や句点の打ち方などを感じることができた気がします。書き写すということは、その作家の文章に寄り添って同化していくこと。書き写すという肉体的な行為は、文章を目で追うだけの行為とはちょっと違う。書き写すことで、その作家の文章が自分の指先から肉体化されて伝わってくるんですね。「学ぶことは真似ること」と言いますけど、好きな作家を真似ることが文章の上達につながるのかなと思います。でもそれはきっと、即効性のあるものではない。ようやく今になっていろいろな文章を書きながら、ひょっとしてあの頃に書き写した訓練が、じんわりと知らぬうちに活きているのかなと感じるくらい、ゆっくりと血肉になっていったように思います。

学生時代はとにかく、そんな文章修行に没頭していたので、大学の授業はほとんど受けていませんでした。学食でお昼ご飯を友だちにおごってノートを借りて、それで試験を受けるような、ぐうたらな学生でしたから(笑)。大学時代は、読書をしたり小説を書いたりする時間が多かったですね。

当時は、マガジンハウスの文芸誌『鳩よ!』で行われていた「掌編小説コンクール」に何回か応募していました。でも、結局佳作止まりで何回か名前だけが載るくらい。このコンクールを選んだ理由は「原稿用紙10枚」という短さでした。当時、長いものはまだまだ力不足で書けなかったけど、短い小説だったらなんとか書ける。落選はするんだけど、そこに出すまでに自分なりに一生懸命推敲して、作品として整えるわけですから。その過程が、文章を鍛える一つの契機になりました。
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大学卒業後はフリーター。遺跡の発掘のバイトで元探偵と出会う

就職活動中は、出版社に入って編集者になるか、広告代理店に行ってコピーライターになりたいと思ってました。当時、就職活動はハガキを書いて企業に資料請求をしたりしていました。僕はのんびり構えていたけれど、それでもハガキ50枚か60枚くらいは書きましたね。ちょうど就職氷河期と言われた時代だったけれど、一社だけ広告代理店から電話がかかってきました。営業を2〜3年やってから、その後コピーライターにならないかと言われました。ちょっと考えさせてくださいと答えたものの、営業をやるつもりはなかったので、結局それっきりになってしまいました。どうしても小説家になりたいという気持ちがあって、最終的には卒業後は就職せずに、1年間フリーターをしました。

まず見つけたアルバイトは古本屋さん。小説を書きながら、本に囲まれて仕事をするのはいいかなと思ったんです。でも、実際の仕事といえばアダルトビデオのパッケージングをしたり、古本を磨いたり、棚を整理したり。力仕事も少なくない。思ったよりなかなかキツい仕事でした。

次に就いたアルバイトは遺跡の発掘。みんなに「そんなバイトどこで見つけたの?」ってよく聞かれますが、雑誌に普通に載っていたんです。倍率も全然高くなくて、即採用。現場に行ってみると、いわゆる刷毛を使って静かに発掘する感じではなくて、私有地の畑をスコップでガンガン掘る、試掘調査という力仕事でした。

ザクザク掘った土の中には、縄文土器が混じっているし、馬の骨や黒曜石、昭和初期の瀬戸物が出てきたり。もう完全に土木作業でした。毎日掘り続けるので、腕や足腰の筋肉がパンパンになりました。すごく思い出に残っていますが、短期のアルバイトだったので実質3か月くらい。でも、そこにいろんな人たちが来ていたんです。高校の英語教師の仕事を辞めた人。新宿の歌舞伎町で客引きをしていた人。アルバイトしながら日本中を回っている人。

一番記憶に残っているのは、探偵の仕事を10年していたけど、遺跡を発掘するのが夢だったという人。「探偵はなんで辞めたんですか?」って訊いてみたら、「もう人のあとをつけるのに疲れた」って言っていました。22歳だった僕は、探偵をやっていた人に初めて会いましたが、世の中にはいろんな仕事があるんだなって思いましたね。彼は夢だった遺跡発掘に携わることができて、すごく感慨深いんだって言っていました。でも、彼には奥さんも子どももいたから、今は実家で食べさせてもらっていると。探偵を辞めて、夢だった遺跡発掘のバイトをしている。でも、奥さんと子どもを抱えて金銭的には苦しい。話を聞いていて、ちょっと切なくなりましたね。

僕は大学を卒業して、22歳くらいの頃です。まだまだ人生の荒波に揉まれていないわけです。それでもできるだけ、いろんな人に会って、考え方とか人生を聞いてみることで、自分の懐が深くなるんじゃないかと考えるようになりました。1人の人間が一生の間に出会う人の数って知れていると思うんですが、とにかくいろんな人に出会うことが大事だと思うんです。

バイトは、どこかしら鬱屈した気持ちでやっていました。でも、筋肉痛になりながらも楽しかったですね。ここでの「出会い」は僕のプラスになりました。雨の日なんかは、プレハブ小屋に入って、トランプとかをして、みんなと話しながら時間を潰す。そういうときに、「僕は小説家になりたい」と言うと、「じゃあ堀本くん、いつか本当になってよ。本買って読むからさ」って。みんな励ましてくれましたね。みんな社会からドロップアウトしたような人たちだったけれど、すごく優しかった。それぞれ夢を持っていた。短期のバイトが終わって解散するときに、あえてそれぞれの連絡先を聞かずに別れようってことになりました。「お互い頑張ろう」と言い合って、笑顔で別れました。今、あのときの仲間がどこかで、僕の書いたものを見てくれていたら嬉しいなぁなんて思います。

結局でも、遺跡の発掘のバイトをやっていると、疲れてしまって小説なんて書けないんですね。土にまみれて、ドロドロになって、満員電車に揺られて家に帰ってくるわけですから。実はフリーターをしていたとき、小説は書けなくてもちょこちょこ俳句は作っていたんです。それでも、就職もしない、小説も書けていない僕は、一体なにやってんだろうな、というやりきれない気持ちで過ごしていました。

行く末の見えなかった苦悩時代が救われた瞬間

2014年に『富士百句で俳句入門』という僕が書いた俳句鑑賞の本のなかで、当時のことについて触れた箇所があります。その頃は朝から国立市まで行って遺跡の発掘をしていました。季節は冬だったので、霜柱が立った土をスコップで掘り続ける。たまに体を伸ばさないと痛くなる。「あー、腰が痛いなあ」って体を起こしたときに、スクッとそびえる凛々しい富士山が遠くに見えたんです。『富士百句で俳句入門』を執筆しているときに、原田紫野さんの「暁の富士や寸余の霜柱」という句に出会って、その当時の気持ちとともに、スコップに鳴る霜柱や背中を伸ばして仰いだ富士山の情景を思い出しました。そして、その当時の遺跡発掘のバイトのことを、原田さんの富士の句にからめて、その本のなかで書きました。

2年ほど前だっかかな。BS日テレで放送されている『久米書店 ~ヨクわかる!話題の一冊~』という久米宏さんと壇蜜さんの番組にゲストに呼ばれました。番組で、『富士百句で俳句入門』を紹介してくれました。そのときに、久米さんがちょうど、原田さんの富士の句について書いた部分を朗読してくれました。遺跡発掘のバイトのことを書いたくだりですね。あのバイトをしていた頃からすでに約20年近く経っていたこともあって、久米さんが朗読してくれたときには懐かしくて、すごく感慨深かったですね。

あの頃は、なんにも行く末が見えないまま土を掘っていたんだけど、のちのちその遺跡発掘のバイトのことを書いた文章がテレビで、久米宏さんに朗読される。久米さんと壇蜜さんのお二人に挟まれながら、自分の書いた本を紹介してもらい、テレビに出るなんて、遺跡発掘のバイトをしていた当時から考えてみれば、ほんとうに夢にも思っていないことでした。そういうことってあるんだな、ずっと続けてきてほんとによかったなと、久米さんの朗読の声を聞きながら、しみじみ思いましたね。後から振り返ってみると、不思議に全部繋がってるってことなんですよね。無駄なことなんて、一つもないのかもしれない。

学生時代、苦悩した時期があってそのときに癒してくれたのが、八木重吉の詩集でした。言葉が優しくて、柔らかくて、でも深いんです。それがすごく胸にしみました。

学生時代、苦悩した時期があってそのときに癒してくれたのが、八木重吉の詩集でした。言葉が優しくて、柔らかくて、でも深いんです。それがすごく胸にしみました。

社会を知らなければ小説は書けない。営業マンとして頭を下げ続けた20代前半

その後は、いろいろ悩んだ末に就職するんです。やっぱり社会をある程度知らないと小説って書けないのかもしれないと思いました。それで、小さな出版社に、営業として就職しました。

大学生の就職活動の頃とは少し考え方が変わり、営業という仕事を通して、本がどういう仕組みで流通し書店に置かれるのかを知っておいたほうがいいと思うようになったんです。その出版社は、ペットの実用書を中心に売っていたんですが、そこで初めて社会人としての「いろは」を先輩に教えてもらいました。

取次の窓口に行ったり、自分の足で書店をまわって、実用書の担当者に自社の本を売り込み、注文を取ることで、どういう流れで本が流通していくのかを汗をかいて営業しながら学んだ。営業マンとして、ひたすら人に頭を下げた時代でもあります。仕事で大変だったのは、本を売っていくという厳しさですね。ベストセラーはそうそう簡単には出ない。でも、営業としてできることはやる。たとえば、平積みで置いてくださいと書店に頼んでも、売れなければ当然すぐに返ってくる。本を売ることの厳しさを知りました。書店の担当者はいい人もいるし、全然話を聞いてくれない人もいましたね。営業の仕事を通しても、いろんな人に出会ったなと思います。1冊1冊の本が生半可なことで簡単にここに並んでるんじゃないということを、20代で知れたのは、経験としてものすごく大きかったと思います。

でも結局、就職しても忙しさはやっぱり同じでしたから、小説は書けませんでした。多忙ばかりが理由ではなくて、まだその時期に来ていなかったのでしょうね。そんななかで、俳句はコツコツと作り続けていました。短くて作りやすかったのも続けられた理由だと思います。新人賞に送ったりはしていましたが、落選でしたね。何度か落選を繰り返しました。それでもひたすら作句していました。やっぱりひたすら続けるってことが、すごく大事なことなんだと思いますね。

(撮影:萬崎友子)

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