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第1回:自分の表現の根幹は、故郷にあった

国語の授業や受験とは関係なく、俳句に触れたことってありますか?
決して古いものだけではなく、今も新しい句が次々と生み出されています。17音という制限があるからこそ、作者の一言一言に対するこだわりが読者の想像をかき立てる俳句。コピーライターや編集者が発想の参考にすることもあるのだとか。この連載は、又吉直樹氏と共に『芸人と俳人』を著した堀本裕樹氏が、自らの手で俳人という仕事を切り拓いてきた道を辿ります!

    Profile

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    堀本裕樹

    1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。「いるか句会」「たんぽぽ句会」を主宰。第36回俳人協会新人賞、第2回北斗賞など受賞。著書に『十七音の海 俳句という詩にめぐり逢う』、『富士百句で俳句入門』、句集『熊野曼陀羅』、小説『いるか句会へようこそ!恋の句を捧げる杏の物語』、ピース又吉直樹さんとの共著『芸人と俳人』など。又吉さんとのメールマガジン『夜の秘密結社』も好評配信中。創作の傍ら、俳句の豊かさや楽しさを広く伝える活動を行う。

    「俳人」ってどんな仕事?

    春コートかがやくものを追へば旅  裕樹

    旅ってなんだろう、何を求めてゆくのだろうと思ったとき、戸外に出ていろんな風景に出会いながら「かがやくもの」を探しているのではないかと気づきました。「かがやくもの」とは何だろう。それは海であったり空であったり森であったり川であったり人であったり心の中の今まで気づかなかった声であったり……さまざまな「かがやくもの」。言葉も「かがやくもの」の一つかもしれません。もうすぐ立春ですね。春の軽やかなコートを着て、それぞれの言葉を探しに行きませんか。

    こんにちは。俳人の堀本裕樹です。

    「俳句で、食べていけるんですか?」とよく聞かれるんですけど、正直なかなか難しいですね。何か本業を持ちながら俳句を作っている人がほとんどだと思います。俳人は「俳句を作ること」だけが仕事だと思われているかもしれませんがそれだけではありません。たとえば、俳句の雑誌から、「新作10句作ってください。」という依頼などもありますが、その原稿料だけでは食べていけないのが現状です。なので、僕の場合は参加者を募って自分が主宰する「句会」を開いたり、カルチャーセンターで教えたり、書評やエッセイを書いたり、ラジオやテレビに出演したり、講演をしたり、俳句に限らず言葉にまつわるさまざまな仕事を行っています。

    今はこうして「俳句」を仕事にしていますが、大学生くらいまでは小説家を志していました。二十代の頃は無知なこともあって俳句といえば、ジャンル的に古臭くて、小説よりも格段に下なものだと思っていましたね。よっぽど小説の方が力があって、世の中に対する影響力は大きいと。そんなふうに考えていた僕が、俳人としてなんとかやっていけるようになるまでを、幼少期から遡ってお話していこうと思います。

    泳ぎがうまくなると信じて、メダカを飲んでいた幼少期

    僕が生まれたところは和歌山県で、僕の両親は熊野本宮の出身です。今では熊野古道は世界遺産ですが、自然が豊かな古代からの聖地であり巡礼の地でもあります。すごく山が深いんですよね、川もきれいで。小さい頃からその熊野川で泳いで遊んでいました。浅瀬に泳いでいるメダカを手にすくって、生きたままグーッて丸のみしたりするんですよ。親戚の子と泳いでいたら、「メダカ飲んだら、泳ぎがうまなるんや」と言われて、「あ、そうなんや」と思ってけっこう何匹も飲みましたね(笑)。

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    こういう記憶は僕も長いあいだ忘れていたんですけど、『俳句歳時記』という俳句を作るのには欠かせない季語辞典をめくっていたら、ある時「メダカって夏の季語なんだ」と知ったんです。そのときに「そういや、子どもの頃に生きたメダカを飲んでたな」と思い出した(笑)。『俳句歳時記』には、解説とともに例句といってそれぞれの季語を使った俳句が載っているんですが、メダカを「飲んだ」なんて俳句はひとつもないから、これはもう僕のオリジナリティある句が作れるなと。そんな記憶から、この俳句が生まれました。

    はらわたに飼ひ殺したる目高かな  裕樹

    先日行った講演会でも、このメダカを飲んだ話をしたのですが、みんな「えーっ!」という驚きと、ちょっと引き気味のリアクションがありましたね(笑)。こんなふうにメダカを飲んだ経験はじめ、カブトムシを捕まえたり、魚釣りをしたり、いろんな植物や動物に触れたり、松茸狩りをしたり。さまざまな自然に触れた体験が、まるまる俳句になるんです。季語っていうのは全部、もちろん人事のこともあるけども、植物とか動物とか地理とか天文とか、自然がほとんどなんです。自分の表現の根幹は故郷にあった。全部故郷が育んでくれたと思っています。

    「お前、何読んでるんや!?」と冷やかされるから、小説や詩は隠れて読んでいた

    とはいえ、この田舎から抜け出したい想いもあって、高校時代から東京に憧れるようになりました。和歌山にいると、時間がとまったような感じなんですね。高校生くらいから小説や詩を書き始めたんですけど、いろんな人や物事が混沌とうずまいている東京で刺激を受けて、それらが自分の文章にいい影響を与えてくれたらいいなと思っていました。

    中学、高校と部活は陸上部の長距離でした。でも同時に本を読むのにも夢中だったから、高校のときは隠れて図書館で本を読んでいましたね。なぜ隠れていたかっていうと、体育会系の陸上部の友だちは文学にゆかりのない人たちが多かったから、「お前、何読んでるんや!?」みたいに冷やかされるんです。それが嫌だったからこそこそ読んでましたね。そうやって隠れながら読んだなかで、僕にとって思い出深いのが『日本の詩歌』という本。堀口大學が特に大好きで、「夕ぐれの時はよい時」という詩は、何回も繰り返し読んでいましたね。「こういう抒情いいなあ」としみじみ思いながら、誰に見せるでもなく、自分で授業中に詩を書いたりしていたのが、ものを書き始めた最初かもしれません。

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    たぶん、自分の中に鬱屈した何かがあって、それを表現として吐き出したいという思いがあったんでしょう。あとは、自分が読んでいた詩や小説が素晴らしかったので、こういうのを自分でも書いてみたいという文学青年的な憧れもあった。大好きな作家の一人に、同郷の和歌山から東京に出て活躍した中上健次という小説家がいます。中上さんへの憧れと、いろんな刺激があるだろう東京への憧れも重なって、高校当時書いた小説の一編も東京生活に疲れた青年が北海道に一人旅する話でしたね。完全に妄想で書きました。まだ一度も、東京や北海道に行ったこともないのに(笑)。

    小説家を志し、小説一本で手にした大学合格

    そうやって小説や詩を書いてばかりいたし、陸上部の練習で疲れて帰ってくるし、学校の勉強は全然していませんでしたね。勉強が追っつかないから、大学を決める時にはとにかく受験科目を絞っていきました。本当は学費が安い国公立にいきたかったけれど、勉強ができなかったから、途中で私立に切り替えました。私立の文系なら英語と国語と社会があれば行ける。そこまで絞ったけれど、もうその三教科さえも手に負えなくなってきて(笑)、自分の一番得意な文章を書くこと、論文だけで行けるところはないかなと大学を探し出したんです。

    それで見つけたのが公募推薦で「なんでも高校時代にやったものを提出すれば、賞などを取っていなくても応募できる」というところ。僕は小説でいこうと決めました。みんなが受験勉強をしているときに、原稿用紙42枚くらいの短編小説をひたすらに書いていましたね。人と違うことをやっているなというのはわかっていましたが、何の根拠もないのにできると信じたらとことんやってしまうんですね。これはもう性分です。周りのみんなには「大丈夫か」って心配されましたが。受験したのが法学部だったんですけど、仕上げた小説と課題だった論文を提出して、なんとか一次試験に通りました。

    そのあと二次試験は面接とまた論文。面接はもちろん法学部の教授ばっかりが並んでいて、「文学部の面接だったら隣でやってるよ」といきなりジャブを食らいました。強烈な一言でしたね、ウブな田舎の十八歳には。関東の言葉や面接にも全然馴れていないし、もうその一言に圧迫されてしまった。そもそも、文学部で「文学を学ぶ」っていうのは、自分の性に合わないなと思っていました。文学部を出たからといって作家になれるわけでもないし、押し付けられたくないというのがあったんですよね。「この小説が課題だから」と押し付けられて勉強はしたくない。本だけは、自分の好きな作品を読みたいと。それで面接は、たしか政治的なことも書いていた開高健や落合信彦の話を苦肉の策で持ち出して難を逃れたんだと思います。手応えはなかったですよ、もうダメだなと思って。なのに、なぜか受かってしまった(笑)。

    憧れの作家の息吹を感じたくて入った俳句サークル

    大学進学で、ようやく憧れの東京に出てきました。大学生活ってもっとこう、楽しくて刺激があって、というのを想像していたんだけど、わりとおとなしい校風だった。校風だけじゃなく、自分自身もあまりアクティブじゃなかったというのもあるけれど。やっぱりどんな大学であろうと自分から進んでいろいろ行動したりチャレンジしないと、刺激や好奇心は満たされないですよね。だからとりあえず、10人いるかいないかの文芸部に入ったんですけど、でも相変わらず本ばっかり読んでいましたね。

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    小説は書きましたが、せっかく東京に来たのに、結局取り上げるテーマは和歌山のことばかりでした。ホームシックや郷愁みたいなものがあったんでしょうね。東京の物語というのは大学時代には書きませんでした。書けなかったのかもしれないですね、たぶん力量的にも、心情的にも。

    その文芸部では合評会というのがあって、創作したものに対して感想や評を言い合ったりするんです。これは刺激になりましたね。これまで書いたものはほとんど誰にも見せてこなかったから、他人の意見を聞くのは始めてでした。結構手厳しいことも言われたりして、でもここはいいねと言ってもらったりして批評を受けました。そこで客観的に自分の小説ってどんなものだろうというのが改めて見えてきました。で、プロの小説家の作品を読むと、雲泥の差で足下にも及ばないことに改めて気づかされるんです。本当に僕は素人の文章を書いているなと思って恥ずかしかった。これは小説家になるには、よっぽど修行しないと難しいなと考えるようになりました。

    そこで小説という散文を磨くのに、俳句という韻文をやればいいんじゃないかと考えたんです。夏目漱石とか、芥川龍之介とか、俳句をやっていた小説家が昔は多かった。その頃、ちょうど俳句サークルの顧問だった鎌田東二先生という方が、僕が上京するきっかけにもなった小説家の中上健次と白熱の対談をした人だったんです。当時、既に亡くなっていた中上健次の息吹を少しでも感じたい、鎌田先生にお会いして話してみたいという想いもあって、吸い込まれるように俳句サークルに入りました。

    (撮影:萬崎友子)

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