
【あかしゆかの働き方ルックバック】いち会社員が、複業を経て独立するまでの話
- 2025.02.17
- SERIES
会社員や複業、フリーランスから本屋経営まで、自分の人生に合わせてチューニングするように働き方を変化させてきたあかしゆかさん。本連載では、そんなあかしさんに、これまでの働き方について、その時々の気持ちとともに綴っていただきます。第1回は会社員時代のお話です。
- テキスト:あかしゆか
- 編集:吉田薫
- 撮影:西田香織
Profile
あかしゆか
1992年生まれ。2015年に新卒でサイボウズ株式会社へ入社、5年間ブランディング部での企画・編集を経て独立。現在はウェブ・紙問わず、フリーランスの編集者・ライターとして活動をしている。2020年から東京と岡山の2拠点生活をスタート。2021年、岡山で本屋「aru」をオープン。
2025年。
2015年に大学を卒業して社会に出た私にとって、今年は社会人になってからちょうど10年が経過した節目の年である。私は東京のIT企業の会社員としてキャリアをスタートし、今では東京と岡山の二拠点生活をしながら、東京ではフリーランスの編集者・ライターとして、岡山では「aru」という小さな本屋の店主として仕事をしている。
思い返してみるとこの10年間は、自分自身と、そして共に生きていきたい他者との対話を重ね、働き方や生き方を模索しながら変化を続けてきた10年間だった。
一般的な週5正社員として働きはじめた2015年、そして正社員をしながら複業をはじめた2017年、働きすぎてバランスを崩し「週3正社員」へと調整した2019年、個人事業主として独立し、二拠点生活をはじめた2020年、自分の本屋を開業した2021年──。
自分が心地よく生き続けるためには、変化が必ず必要となる。けれども私の従来の性格は「変化万歳!」というタイプではなく、むしろ心地いい居場所を見つけたら、ずっと変わらずそのままでいられたらいいのにと願うタイプである。それでも時間は止まってはくれず、自分の心も体も周囲も社会的な状況も、どんどん絶えずに移ろい変わる。だからこそ、変わらず幸福でいるためには、やっぱり自らが変わっていかなければいけないのだ。
それでは私は何を考えて、これまで仕事や働き方を変化させ続けてきたのだろうか。それは変化というよりも「チューニング」という言葉のほうが近いのかもしれない。今回、CINRA JOBさんに機会をいただき、この10年間の仕事と働き方をコラム連載として数回に分けて振り返ることになった。ぜひ、この振り返りにお付き合いいただける方がいるととてもうれしく思う。
就活で挫折し、IT企業の正社員となる
私のキャリアは、2015年にサイボウズというIT企業の正社員という形でスタートした。けれど、このスタートは私にとって純度100%で喜べるものではなかった。なぜなら私は、大学時代に本屋で働き、本に人生を動かされてきた経験から、文章と関わって生きていたいと願っていたからである。
就活では出版社を第一志望として考えていた。けれど、出版社は狭き門だと言われていることも知っていたから、それだけを受けるのは怖いとも思っていた。そこで出版以外の業界で行きたい会社を探している時に出会ったのが、サイボウズだったのだ。
サイボウズは、グループウェアを軸に事業を展開しているIT企業で、その理念や企業文化に心惹かれた。さらに当時は事業会社がブランディングを目的としてつくる「オウンドメディア」黎明期であり、サイボウズはその先駆けとしてメディア運営に力を入れている時期だったのだ。
「出版社じゃなかったとしても、事業会社の編集者という道からキャリアを築いていけるかもしれない」。
企業自体に共感していたことに加え、細い細い糸ではあるけれど、自分の編集者としてのキャリアの可能性も感じた。そうして受けたサイボウズは、とんとん拍子に内定をいただくことができたのだった。
出版社の就活は、最終選考やいいところまで残った企業はあったのだけれど、結局うまくいかなかった。「すべて落ちるまで待ってていただいてもいいですか?」という無茶な願いを聞いて実際に内定承諾まで半年以上待ってくださったサイボウズには、今でも感謝してもし尽くせない。
こんなふうに、少しの挫折感と、とはいえ素敵な会社に出会えたという複雑な気持ちのもとで、私の社会人生活はスタートした。
声に出さなくては伝わらない
前述したように、私は入社した時からサイボウズの「ブランディングの編集職」に就きたいと思っていたのだけれど、面接の時に「新卒ですぐにその部署に行くのは難しいですよ」とも人事の方から伝えられていた(当時のことなので、いまではどうか分からない)。事業会社だから、新人はまずは会社の根幹となる事業にかかわる部署に配属される。その方針にはすごく共感するし、私も納得をして入社した。
そうして配属されたのはWebマーケティングの部署だった。製品のWeb広告を運用したり、パンフレットを制作したりイベントを企画したりと、新人時代から広くさまざまなことを経験させてもらった。
けれどもやっぱり、紙の本に惹かれ、文章が好きだった私は、働いているうちにどんどん「このままでいいのかな?」という気持ちが大きくなっていった。いつ、自分が希望している部署に行けるかもわからない。先が見えない状況では不安が膨らんでいき、そして2年目に入った頃、「異動したい」という希望を声に出して言うようになったのである。
この時、私を動かしたきっかけとなる印象的な出来事があった。それは会社のとある飲み会の時に、当時のブランディング部の部長──つまりは私が行きたいと思っていた部署の部長に、「あかしさんはこれからやりたいこととかあるの?」と聞かれたことだった。
私はてっきり、自分がブランディングの部署にいずれ行きたいことは、面接で人事の方に熱く伝えていたつもりだったので「みんなが知ってくれているだろう」と思っていたのだ。今ではそんなはずないだろうと思えるのだけれど、新人の頃の私は、入社時に伝えた希望は社内の人にわざわざ言わなくても全員に伝わっていくのだろうと信じて疑わなかったのである。
声をあげなければ、いや、声をあげ続けなければ、自分の希望は伝わらない。人は、自分が思うよりもずっとずっと、自分のことなど見ていないのだ。あたりまえのことに気づかせてくれた上司のひょんな一言は、私のマインドを大きく変えてくれた。実際に声に出すようになってからほどなくして、私は念願のブランディング部へ異動できることになったのだった。
編集者としてのキャリアがスタート。学び、実践する日々
会社員2年目の後半。ようやく「編集者」という肩書きを手に入れた私は、それまで以上に仕事に精力的に取り組むようになった。
上司に毎日真っ赤になるまで原稿を見てもらい、編集の基礎を叩き込んでもらった。企画を100本つくるブートキャンプをしたり、取材にもたくさん行かせてもらった。いろんな社外のイベントやセミナーにも顔を出して、とにかく学ぼうと必死だった。編集者として王道のキャリアではないという自覚があったからこそ、体系立てて基礎を学ぶため、外部の編集・ライター講座にもいくつか通った。
SNSでの発信を始めたのもこの頃だ。自分がはじめて担当した記事が完成した時に、「自分自身の力で、自分がつくったものを多くの人に届けられるようになりたい」と感じたのが一番の理由である。会社の肩書きに依存しすぎるのが怖かったという思いもあった。この頃から、いつか「あかしゆか」という個人として仕事をしていきたいという思いが少しずつ芽生え始めていたと思う。
発信をはじめてしばらく経ったころ、Twitter(現X)で出会った出版社の方にお声がけをいただいて、複業をはじめることになった。サイボウズではビジネス系の記事をつくることが多かったので、それ以外の自分の興味──生活や文化などのジャンルの執筆や編集を複業としてするようになっていった。「働き方改革」という言葉が世間で話題になったのもちょうどこの時期で、当時働き方が最前線だったサイボウズの方々は、そんな私を「いいぞもっとやれ」と応援してくれた。
会社員として週5で働きながら、講座やイベントに通い、複業もたくさんこなす。今思うとこの頃は、何よりも仕事を優先して生活をしていたように思う。
複業をしすぎて倒れ、働き方を見直すように
そうした働き方を続けてしばらくが経った頃、心身に不調が出るようになった。
単純に働きすぎで体調を崩しがちになったことに加え、心のバランスも取れなくなっていたのだ。やっと自分がやりたい仕事に就けたという喜びと、機会をひとつでも逃す怖さから、「求められるものすべてに答えなくては」という強迫観念に襲われるようになっていたのである。
どんどん、自分のやりたいことがわからなくなっていった。目の前のタスクに追われ、好きだったはずの文章にまつわる仕事が、どんどん「やらなくてはいけないこと」に変わっていき、ついには自分を苦しめるものに変わっていく。そのことに心が耐えられなくなっていた。
そしてある日、会社に行こうと思うと涙が止まらなくなり、会社に行けなくなってしまったのだ。心療内科に行くと「鬱の一歩手前まできています」と言われ、すぐに1週間ほど仕事を休むことになった。そしてこのままではいけないと、働き方を調整することにしたのである。
サイボウズは個人の希望と会社のニーズが一致していれば働き方が柔軟に選べる環境だったこともあり、上司やチームと相談して「週3正社員」という形を取らせていただくことになった。最初はしばらく複業をやめて会社の仕事に集中するという選択肢を選んでいたのだけれど、やはり私にとって複業でしていた仕事が大切だったこともあって、「両方を少しずつ減らす」という方向で調整した。
会社員からの卒業
週3正社員+複業という形の働き方は、自分に合っていたように思う。けれどしばらくその形で仕事を続けているうちに、「本当に会社員でいる必要があるのだろうか?」という疑問が自分の中に生まれていった。
週3社員でいることを許してくれるような自由な働き方ができる会社でも、それはあくまでも「会社員としての自由」であり、本当の意味での自由ではない(あたりまえだ)。複業でどうしても受けたい仕事の予定が会社の日と重なったら受けられないし、受けられたとしても多くの調整が必要となる。さまざまなプロジェクトを持つ中で、もっと自由に柔軟に仕事を組み立てたい、と願うようになっていた。
正社員でいることのメリットは、福利厚生やローンを組む際の社会的信用などたくさんあったけれど、そのメリットと、自分が得たい環境を天秤にかけた時に、個人事業主という働き方のほうが、自分には合うと思うようになっていた。複業を長らく続けていたこともあり、ひとりでも食べていけるだけの仕事の目処が立っていたことも大きかった。
そうして私はサイボウズを辞め、2020年の3月に、フリーランスの編集者・ライターとして独立したのだった。
「自由」と「自立」を重んじる姿勢は、幼い頃から変わらない
こうして5年間の会社員生活を経て私はフリーランスとなったわけだけれど、働く上・生きる上で大切にしている姿勢は、学生時代も、会社員時代も、そしてフリーランス時代になってからもずっと一貫して変わらないような気がする。
それは「自由」と「自立」を重んじる、ということだ。
私は京都に生まれ育ち、中高大一貫の学校で教育を受けた。そしてその学校の校風は「自由・自治・自立を重んじる」というものだった。中学生の頃から、制服もなければ校則もほとんどない。どうやって生きたいのか、何をするのか、どんな自分でありたいか、どう行動するかは個人の意思に委ねられた。「自由は厳しいよ」と親にも先生にも言われて育ち、そしてそれはサイボウズに入社してからもまったく一緒だったのである。
サイボウズも、とても自由な会社だった。そのかわりに、何よりも自立と議論を重んじていた。
学生生活でも会社員生活でも、「自分が何を選んでもいいけれど、その選択に責任を持ちましょう」と言われ続けてきた。もちろん最初からそんなにうまくいくわけはなく、自分の選択に後悔をしたり、幼い頃はうまくいかないことを環境のせいにしてしまったこともある。けれども、「自由と自立」ということを口酸っぱく周囲から言われ続けた経験は今の私の考え方に大きく影響していて、そんな私がフリーランスになったのは、なるべくしてなったことなのかもしれないな、と思ったりもする。
──さて次回は、フリーランスとして仕事をするようになった初期の頃のお話をしたいと思う。