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文芸誌は「フェス」である。新文芸誌『GOAT』創刊記念に、小川哲×金原ひとみ×渡辺祐真が語る

2024年11月末、小学館より新たな文芸誌『GOAT』が創刊された。純文学にミステリ、詩に短歌、はたまた海外文学とジャンルを大きく横断する多彩な内容と豪華執筆陣、500ページ超えの圧倒的なボリューム感。また、文芸誌らしからぬポップでカジュアルな装丁と、この物価高の時代にあって税込510円という破格とも言える価格(もちろん誌名に引っ掛けている)も目を引く。

その刊行を記念して、11月29日に下北沢の本屋B&Bにてトークショー『文学は世界をひっくり返せるか』が開催された。登壇者は、同誌執筆陣に名を連ねる作家の金原ひとみ、小川哲、スケザネ名義でも活動する書評家の渡辺祐真の3名。小説の書き手として、そして本の紹介者として、雑誌不況と言われて久しい今、この新たな文芸誌の創刊をどう見るのか。満員御礼の静かな熱気の中、渡辺を進行役に「小説と雑誌」の現在と未来をめぐる刺激的な対話がスタートした。

  • テキスト:辻本力
  • 編集・撮影:吉田薫

純文学もエンタメもごちゃ混ぜに。『GOAT』を駆動する高熱量とお祭り感

まず最初の話題は、刊行ほやほやの『GOAT』を手に取っての第一印象から。

金原:確か、最初の打合せの時に「純文学もエンタメもごちゃ混ぜにして取り扱う」という話があって、そんなことできるのかな?と思って。で、実際に手に取ってみたら、純文学とエンタメもそうだし、パク・ソルメさんやチョン・セランさんのような私の大好きな韓国作家の方たちも書かれていたり、長塚圭史さんのような演劇系の人もいて、まずは「本当だ、すごいごちゃ混ぜ!」と感動しました。

小川:書かれているメンバーを拝見すると、おそらくなかなか原稿を取ってくるのが難しい人気の方ばかりですよね。まずは、小学館の編集者さんたちがすごく熱い想いでもって執筆依頼をしていたんだろうな、というのが伝わってきました。だからこそ、みんなそれに賛同して集まったのでしょう。この熱量が今後もずっと続いたらすごいことになるんじゃないかなと、期待しています。

『GOAT』に大きな注目が集まっているのは、その初動の速さからもうかがえる。発売されるやいなや店頭から消える書店が続出し、即重版が決定。筆者も発売日に大型書店をチェックしたのだが、雑誌コーナーから「何か新しいことが始まった」感が漂ってくるのをひしひしと感じた。

小川:たぶん、文芸誌として読まれてないと思うんですよね。まだ、なんかよく分からない謎の塊として受け止められているというか。でも、ここには面白いものがあるぞ、という確かなお祭り感がある。

渡辺:巻頭のカラーページの充実が目を引きますね。西加奈子さん、小池真理子さん、加藤シゲアキさんといった作家勢のみならず、俳優の東出昌大さん、Kis-My-Ft2の藤ヶ谷太輔さん、ラッパーのAwichさんなどの写真が並んでいる。いわゆる普通の文芸誌ではあんまりない建てつけで、そういうところにも注目が集まっているのでは。

小川:いち作家としては、この人のファンに僕の小説を読んでもらいたいな、というメンツが揃ってるのがいいなと思いました。ただ売れているタレントを載せて本の売り上げが増えればいいや、という感じではなくて、ちゃんと必然性があるラインナップになっていますよね。ちょっといやらしいことを言うなら、東出さんや藤ヶ谷さん目当てで買った人が、僕の小説を読んでファンになってくれたら嬉しいです(笑)。

小説にも「歌会」のような場を

そして話題は、創刊号の第1特集である「愛」と、そこにラインナップされている短歌企画「軽井沢で愛を詠む」へと移っていく。同記事は、歌人の野口あや子を立会人に、歌人で小説家の小佐野彈、芥川賞作家の朝吹真理子と高瀬隼子、そして短歌関係の著書もある渡辺祐真が「愛」をテーマに行なった歌会の模様をドキュメントしたものだ。

本トークでは、5人による歌会の裏話なども交えつつ、朝吹・高瀬という小説家の発想が、いかに短歌へと変換されてくか、その過程をリアルタイムで知ることのできる貴重な機会であったことが渡辺自身によって語られた。これに対して、金原・小川からは「同じことを小説でもやってみたい」という意見が。

金原:短歌とか俳句って、私にとっては本当に難しいもので。字数制限があるじゃないですか。昔、一度作詞をしたことがあるんですけど、そのときは「好き勝手に書けない」ことのもどかしさを身をもって知り、びっくりしました。

小説はそこまでシビアな字数制限はないので、書きたいことをいくらでも詰め込めてしまう。でも短詩とか歌詞は、逆に言葉を削ぎ落として削ぎ落としてつくり上げる。作家達が果敢に短歌に挑んでいる姿を見て、自分は「いくらでも書いていい」という状態に甘えすぎているかもしれないとあらためて思いました。

小川:歌会のような形だと、作品そのものだけではなくて、それがつくられていく過程も見られるから面白いですよね。これ、小説でもやってみたいなと思いました。

僕がイメージしているのは、みんなで集まって小説を書くのではなく、参加する作家がそれぞれショートストーリーみたいなものを持ち寄って、それを解釈/批評し合い、作品を発展させていくような企画ですね。まあ、前提として仲が良くないと喧嘩になるかもしれないけど(笑)。

金原:たぶん日本の作家って、シビアな批評に晒されることに慣れていなさすぎるのだと思う。それなりにキャリアを積んでくると、編集者も言いたいことがあっても遠慮しちゃうだろうし、自分の作品を好きな人だけがまわりに集まってくるようなことになりがちだから。他人の批評を面と向かって受け止めるような機会や、意見をフラットに言い合える場がもっとあってもいいなと、この記事を読みながら思いました。

小説で世界はひっくり返らない?

トークの後半戦では、イベントタイトルにもなっている「文学は世界をひっくり返せるか」というスケールの大きな問いを中心に、文芸誌という媒体や小説をめぐる現状が俎上に載った。

「文学は世界をひっくり返せるか」というのは、金原が『GOAT』創刊号に寄せたエッセイ「BOOM BOOM TAIPEI」のなかのエピソードに由来する。同エッセイには、仕事で台湾を訪れた金原が、台湾と日本の作家や批評家ら文芸関係者と交流する様子が綴られているのだが、ある酒の席で作家の東山彰良が「俺は小説で世界をひっくり返したいんだ!」と熱っぽく語る場面が出てくる。金原は、この言葉をきっかけにある記憶を蘇らせていく。

金原:私はデビューして3作目となる『AMEBIC』という小説を出したときに、確かに「あ、これで世界が変わる」って思ったんですよ。つまり、世界が私の小説でひっくり返るんだ、という確信めいたものがあったわけです。でも、当然のように世界がひっくり返ることはなく、以前と同じ毎日が続いていった。当時は「そうか、小説で世界はひっくり返らないんだ!」ということに結構本気でびっくりしていました。

渡辺:小説が世界をひっくり返すと一口に言っても、色々な可能性があると思います。小川さんはどんなイメージを持たれますか?

小川:イメージは人それぞれ違うと思うんですけど、僕がそれで思うのは、そもそも小説を読む層というのがいま世界的にそこまで大きなものではない、という現実です。つまり、僕がいくらとんでもなく面白く革新的な小説を書いたとしても、小説を読む人間自体がマイノリティとなっている現状では、世界を変えるようなインパクトを生むことは不可能。なので、まず考えるべきは、小説を読む人を増やすために何ができるか、だと思います。世界を変えるには、小説を読む人たちを世界を変えられるくらいの大きな勢力にしなきゃいけないわけだから。そういう意味では、小説を読む人はみんな大切な仲間です。

金原:確かに、電車で本を読んでる人を見かけると「あ、仲間!」みたいに、ちょっと嬉しくなりますよね。いや本当に、本のジャンルとか問わないでいいですよ。いまや「本を読む」という行為が残っていること自体がありがたいわけで。

確かに読書って、それなりに苦痛を伴うものだと思うんです。でも、本でしか吸えない空気や、嗅げない匂いは間違いなくある。私自身も、そうしたものにずっと救われてきた人間なので、どんな本でもいいからとりあえず読んでみてほしいなと切に願っています。

小川:本当は、純文学とかエンタメとかで分断をつくっていたらダメなんですよ。世間から見たら内ゲバみたいなものにしか映っていないんだから。

だから、友達のカバンの中に何か本が入っていて、それが仮に自分にとって下らないと思えるものであっても、「あ、本いいよね、仲間仲間」みたいに仲良くやってほしいですね(笑)。

文学が目指すべきは「速い物語<遅い物語」

この話題の中で、客席にいた『GOAT』寄稿者でもある葉真中顕と麻布競馬場にも意見が求められた。印象的だったのは、両作家とも「世界をひっくり返す」という発想に対して、ある種の危機意識を口にしたことだった。

葉真中:そもそも文学とか文化とか、そういう上部構造で世界をひっくり返してはいけないと僕は思うんです。変えるなら、むしろ下部構造からではないかなって。現実にフィクションによって世界が変わるときって、ネトウヨ的な人だったり、ヘイト的な言説を撒き散らす人たちの「物語」が人間の動物的なところに直接訴えかけた結果だったりするじゃないですか。そうした現象を、僕たちはSNSを介して嫌というほど見てきました。だからこそ、そうした強引なやり方ではなく、「本を読む人を増やしていこう」みたいな、小さな世界の中での変革を目指していくほうが健全なのではないかと思うんです。

小川:確かに、小説で世界を変えようとしたら、誰にでも分かる、誰でも感動できる物語をつくらなきゃいけなくなる。それって、すごく危険なことですよね。何もかもが簡略化・単純化されていて、耳触りの良い言葉の裏に隠された意図が巧妙にカモフラージュされているかもしれない。僕ら作家は、むしろそういうものに対して警鐘を鳴らすような作品をつくることが仕事だとも言えますね。

麻布:分かりやすい物語って「速い」んですよね。脳にすぐ届くという意味で。つまり、ハック発想なんです。僕自身SNSでデビューした作家なので、そのへんには意識的だったところがあります。昨今の、リベラルの人からしたらムカつくような投票先に票を入れる人たちの行動原理って、やっぱり速い物語にある種ハックされているようなところがある。

僕個人はむしろそれが自分自身というものを取り返す契機になることもあると思うから、必ずしも「悪」とは思いませんが、こと文学に関しては「遅い物語」を使って世の中が悪い方向に行くのを防ぐ、ある種の砦としての役割が大きいように感じています。

渡辺:実際、過去の歴史を見ても、戦争のために国民を動員したりするときの装置として、視覚にダイレクトに訴えることのできる映画や、短さゆえに心に届きやすい短歌や詩が用いられるようなことはたくさんありました。つまり、短く速い物語によって悪い意味で世界がひっくり返ってしまった実例ですね。いま、文学に力を取り戻そうとしたときに、それと同じことを繰り返してしまう可能性は十二分にあると思うので、その危険性は自覚しておかないといけないですね。

文芸誌は「フェス」である。「偶然の出会い」が生まれる場を目指して

トーク内では、こうした文学や物語の孕む負の側面や、文芸誌および雑誌という存在がマイノリティになりつつある現状など、特に出版関係者からすれば耳が痛い、しかしいまや避けては通れない問題についても活発に議論がなされた。そうした状況下にあって、新しい文芸誌『GOAT』にはどんな可能性や未来があり得るのか?

小川:現実問題として、いまの文芸誌って作家に原稿料を出すためのシステムみたいなものになりつつありますよね。売れているとも言い難く、つまり読者不在のまま雑誌は赤字前提でつくられる。じゃあこの時代に雑誌を出すことが無意味なのかといえば、必ずしもそういうわけではありません。どんな効果を生みたいのか、どんなことを世に問いたいのか——それが明確に考えられているのなら、出す意味はあると思うんです。

金原:そういう意味では、『GOAT』の純文学もエンタメも何でもありの雑多さというのは、すごく重要なコンセプトだと思います。

渡辺:雑誌って本来は「ごった煮」なものなんです。本をつくる前提の企画とかは別ですけど、特集なんかはテーマに沿っていれば何を入れてもいいわけじゃないですか。いま編集者が面白いと思っていることを全部詰め込みました! みたいなアクチュアルさが雑誌の魅力なので、そういう意味では、そのど真ん中をやっているのが『GOAT』なのでは。

小川:それで言うなら、『GOAT』にもライトノベルやヤングアダルト、あるいは絵本なども含めて、手付かずの領域がまだある。意地の悪い見方をするなら、まだまだ壁つくってんじゃないですか? って。あらゆる本好きが肩を組めるような場をつくって、その輪を広げていかないと革命は起こせませんからね。

金原:つまり、文芸誌って「フェス」なんですよ。フェスって、意外な出会いに満ちているじゃないですか。ロック好きの人が目当てのバンドを見に行って、偶然見たアイドルのパフォーマンスに驚愕したり。私自身、音源だけではハマらなかったかもしれないけど、フェスで偶然出会って好きになって、以来ライブに通い続けているバンドがたくさんいます。

ふと目にしたものが、その後の自分の人生を彩ったり、支えになるようなことが起こり得る場——それは文芸誌も同じなんじゃないかなって。そういう出会いの広がりを提供できる場となることが、文芸誌が生き残るための最後の道なんじゃないでしょうか。

『GOAT』が発売即重版となった初動の速さは、まさにそうした新たな作者や作品、新たな表現との出会いを、世の中が求めていることの1つの表れなのかもしれない。同誌次号は、約半年後の2025年5月頃を予定しているという。次はどんな形で「壁」を壊してくるのか、いまから期待して待ちたい。

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