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チームを勝利に導く「スタジアムDJ」とは?「結果に結びつけるまでが仕事」パトリック・ユウに聞く極意

プロ野球やJリーグ、Bリーグをはじめとする日本のプロスポーツでは近年、音や光、映像を使った演出や試合前後のライブイベントなどによってよりエンターテイメント性を高め、観客を呼び込もうとする動きが広がっている。

さまざまなクリエイティブ系の仕事が関わるなかで、会場をアナウンスの力で盛り上げる役目を担うのが、スタジアムDJだ。

スタジアムDJは、試合中のアナウンスや盛り上げなどのMCを行う仕事。チームとファンの架け橋としてファンの応援をサポートし、ときにはチームを勢いづける存在となる。

今回は、2008年から昨年まで東京ヤクルトスワローズ(以下、スワローズ)のスタジアムDJを18年間担当したパトリック・ユウさんにインタビュー。パトリックさんはディスコのDJからキャリアをスタートさせ、スワローズ以外にもヴィッセル神戸やBリーグのサンロッカーズ渋谷などさまざまなチームでスタジアムDJを経験したほか、現在は自身が立ち上げたアナウンス事務所「P'S STADIUM」で代表も務める。

「負けているときこそ輝く」というスタジアムDJの仕事や、18年間のスワローズでの活動と現在の心境、P'S STADIUM設立への想いやスタジアムDJという仕事の未来などについて、たっぷりと聞いた。

  • インタビュー・テキスト:廣田一馬
  • 撮影:沼田学

INDEX

阪神淡路大震災の復興の最中、ヴィッセル神戸の初代スタジアムDJに

─まずは、パトリックさんがスタジアムDJになるまでの経緯から教えていただきたいです。

パトリック・ユウ(以下、パトリック):もともとバスケや野球の選手になりたいという夢を抱きながら学生時代を過ごしていました。でも、プロを目指すのは難しく、壁にぶつかったときに出会ったのが音楽とディスコで、ターンテーブルを回すDJに一目ぼれして業界に飛び込みました。

パトリック・ユウ
1968年生まれ。東京・千駄ヶ谷出身。アメリカと韓国のダブルで、英語と日本語のバイリンガル。バイリンガルMC、スポーツMC、スタジアムDJ、ナレーターなどとして活動するほか、P’S STADIUM代表取締役を務める。

パトリック:当時のディスコのDJは黙々と曲をつなぐタイプと、喋りで盛り上げながら曲を流すタイプの2つがあって。私は後者だったので、喋りのDJのキャリアを積むなかでイベントMCの仕事を始めました。

そこからライブハウスのマネージャーや飲食店、クラブのマネージャーなどいろいろな仕事をしながら自分の道を模索するなかで、「好きだった音楽に関わりながら、英語が喋れることを活かしてラジオDJとして仕事をしたい」と考えるようになり。自分でデモテープを作ったり、先輩のレッスンを受けたりして、制作会社に売り込みに行き、運良くタイミングも合ってラジオDJになることができました。

─ラジオDJを目指すのは大変な部分も多かったのではないでしょうか?

パトリック:当時はラジオDJの「喋り」をすごく研究しましたね。イベントで喋るのと、電波に乗せて喋るのは全然違うなと感じていたので、気に入った番組をずっと聞いて、「嫌な言葉を使わないな」「テンポ感が良いな」「読んでるんじゃなくて語りかけてくれているんだな」と分析したり、リスナーが頭のなかで絵を描けるようにボキャブラリーを増やしたり、時間をかけてコツコツ勉強しました。

─そこからスタジアムDJの仕事を始めたきっかけは何だったのでしょうか。

パトリック:神戸でラジオDJとして活動している時期に、阪神淡路大震災に被災し、避難所で1か月ほど生活しました。この経験が、自分のなかでとても大きくて。

避難所には、私みたいに家は残って家族も無事な人もいれば、家も家族も亡くした方々もいた。お互いに他人同士、境遇も違う人々が一緒に生活することには、いままで経験したことのない大変さがありました。

それと同時に、今日も生きていることへの感謝の気持ちや、自分もいつ死んでしまうかわからないという思いも湧いてきて、もっと頑張らないといけないと気持ちに火がつきました。そのタイミングで、サッカーチームのヴィッセル神戸から、「スタジアムDJをやってみないか」と声をかけてもらったんです。

パトリック:ヴィッセル神戸は震災が起こった1995年の1月1日にチームが発足したのですが、震災の影響で当初メインスポンサーだったダイエーが3月に撤退してしまって。困難に見舞われたなか、自治体が協力してチームを立ち上げているさなかでした。新しい挑戦の機会だと思いましたし、地域のために力になりたい気持ちもあって、喜んで引き受けました。

震災後なのでサッカーどころじゃない方々も多く、当初は3万人収容のスタジアムに300人くらいしか集まらないこともありましたね。そんななかでどうやったらチームを盛り上げられるか、僕もスタッフと一緒になって頭を悩ませ、話し合い、最終的にはスタジアムをお客さんで満タンにできるまでになり、チームもJ1に昇格しました。

最近は、スタジアムDJを引き受ける場合大抵の場合は前任者がいるので、チームのスタート時期から密に関われた経験は僕のなかで大きな財産になっています。

─当時からスタジアムDJの存在は一般的だったのでしょうか?

パトリック:いまほど一般的ではなかったですね。サッカーには、点が入ったら「GOAL!」とアナウンスするようなアナウンサーがいたくらい。

野球場のアナウンサーは、当時はいわゆる「ウグイス嬢」と呼ばれる女性アナウンサーが一般的でした。オリックス・ブルーウェーブに所属していたDJ KIMURAさんがプロ野球界初、そして当時は唯一の男性アナウンサーとして「スタジアムDJ」を名乗り、先陣を切って活動されていました。

「負けているときこそが、スタジアムDJとしての仕事」

─2008年からは神宮球場で東京ヤクルトスワローズのスタジアムDJとしての活動がスタートします。会場を盛り上げるために特に意識していたことや、こだわりを教えてください。

パトリック:とにかくお客さんに気持ちよく応援してもらうことを第一に考えて、気分が高揚するような言葉遣いや、かしこまり過ぎず馴れ馴れしくもない「ほどよい距離感」を心がけています。

また、スタジアムDJはチームとファンをつなぐ架け橋となるべきだと思うので、ネガティブな言葉は使わないようにしていました。例えば、中継だと実況や解説の方が「このバッターは調子が悪くて3試合ヒット出てません」とか「体が開いてますね。今日もヒットが出なさそうな感じですよね」とか話すこともあると思いますが、スタジアムではそうした言葉は邪魔になってしまう。

皆さん「打ってくれ!」って応援しているので、それを後押しする応援リーダーのような役割を果たすことが、スタジアムDJとしてすごく大事な仕事だと思います。

─応援の力が選手に伝わった、と感じた瞬間はありますか。

パトリック:元スワローズの畠山和洋選手が4番バッターだったある試合で、ウグイスさんの選手紹介とファンの盛り上がり、バッターボックスに入るときの音のフェードアウト、私が「Let’s Go 畠山!」とアナウンスしたタイミング、そのすべてがいい流れでカチッとハマったときがあって。その瞬間「これもう、打つな」って。そしたら本当に打って。満塁ホームランでサヨナラ勝利でした。説明するのは難しいですが、そういう雰囲気ってあるんですよね。いろんなタイミングが重なって。

バスケでも、25点差をひっくり返して勝った試合がありました。ファンの人たちはきっと半分諦めかけていたと思うのですが、試合後半、徐々に追い上げてきたときに相手がタイムアウトを取った。そこで盛り上がる曲をかけ、チアやマスコットが出てきてファンのみんなを煽る。MCもそれに乗っかって、チームのコールをする。ボルテージをさらに上げて選手たちを後押しすると、選手も「行けるぞ」っていう雰囲気になるんですよね。

─選手にも応援の力が伝わっているんですね。

パトリック:もちろんです。私たちもそのためにMCをやってますから。会場を盛り上げたら100点という仕事ではなく、結果に結びつくところまでが大事だと思っています。

だからこそ、負けているときがスタジアムDJとしての腕の見せどころ。勝ってリードしているときって、選手たちが打って、走って、ファンも喜んで、すでに盛り上がってるじゃないですか。その雰囲気をさらに良くするのも大事ですが、劣勢な展開で「まだまだこれからだ」「ここから気持ちを高めて応援していこう」と勇気づけることこそがスタジアムDJの役目なんです。

つば九郎とのフリップ芸が始まったきっかけ

─「ムーチョ」がニックネームの中村選手の打席では毎回「Let’s Go ムーチョ!」とアナウンスするなど、打席に入るときの応援のアナウンスや、苗字とニックネームの使い分けも印象的でした。

パトリック:スワローズのスタジアムDJは独特で、ウグイスさんが名前を呼んだあとに一言声をかけるスタイルは他の球団にはあまりなかったかもしれません。

ニックネームについては選手に「打席に入る時にニックネーム使っていいですか?」「コールはどういうふうにしたらいいですか?」と聞く場合もありますし、一度言ってみて語呂がいいからとか、活躍したからそのまま使うパターンもあります。

─選手側と相談して作っていくんですね。試合前のつば九郎とのフリップ芸から勝った試合のあとに行う関東一本締めまで、パトリックさんはチームの一員として活躍されているイメージでした。他球団にはないスタイルだと思いますが、18年間でどのように確立されたのでしょうか?

パトリック:プロデューサーさんや演出進行のチーフの方とよく話していましたね。球場の空気を見ながら考えていきましたが、うまく行ったものもあれば、あまり盛り上がらず失敗したものもあって。でも、失敗を恐れず行こう、球団に怒られるまでやってみようと言ってくださって。挑戦しやすい環境にしてくれたのは感謝ですね。

自分のユニフォームを作ってもらえたのは、3年目ぐらいになってからでした。つば九郎のフリップ芸も、私がスタジアムDJになった2008年にはなかったですね。

─フリップ芸はどのようなきっかけで始まったのでしょうか?

パトリック:試合前にやるようになったのは、2011年に神宮で開催された、青木宣親選手がメジャーに行く直前のクライマックスシリーズがきっかけでした。

青木さんの第一子誕生をオープニングトークで祝おうという話になって、ディレクターさんとつば九郎さんと相談したら、つば九郎さんが「面白おかしく書くよ」って言ってくれて。「青木さんの子どもの名前を考える」というテーマで「あおきさやか」「あおきいさお」などとボケるかたちで盛り上げてくれました。

それまでにもイベントなどでフリップネタをやることはありましたが、青木さんのときに盛り上がったことで次のシーズンからコーナー化したんです。

「スワローズのスタジアムDJは自分自身にとってライフワークのようにやっていたので、正直寂しいです」

─18年間の活動のなかで、選手からの反応に変化はありましたか?

パトリック:変わっていきましたね。選手がアナウンスを真似してくれることも多くて、ウラディミール・バレンティン選手からは「ココ」と呼んでほしいと言われたり、会うたびに私のアナウンスの真似をしてくれたり。

山田哲人選手はデビューした頃、オリックスのT-岡田選手と同じ履正社高校出身で、名前が哲人なので「T-山田」とよく呼ばれていたんですね。でも、トリプルスリーを達成してからは「Tはもういいんじゃない?」と相談して、山田哲人と呼ぶように変えたこともありました。

あと、選手のほうから「登場曲のスタートの部分を少しカットして、サビの手前ぐらいから入れてほしい」みたいな相談を受けることもあって。当時はサウンドDJ(球場で選曲や音響演出を行うDJ)がいない時代だったので、練習中に選手とコミュニケーションをとって、音響担当に伝達するようなこともありました。

─打ち解けていったことでだんだんコミュニケーションも取りやすくなっていったんですね。

パトリック:でも、基本の仕事はアナウンスをすることです。試合前やプレー中はもちろんですが、選手たちがヒーローになって球場を後にするときも、ただ去っていくっていうのは味気ないので、「今日最高の拍手で送ろうよ!」みたいに盛り上げて、最後の最後まで選手をアナウンスでカッコ良く見せることが大事だと思っています。

─2026年のシーズンからは、スワローズのスタジアムMCが交代になることが明かされ、驚いたファンも多かったと思います。パトリックさんの現在の心境を教えてください。

パトリック:スワローズのスタジアムDJは自分自身にとってライフワークのようにやっていたので、正直寂しいですね。

でもいつか必ずこういう日は来る。同じ仕事を18年続けることってアナウンスの業界ではなかなかないので、こんなに長く使ってくれて感謝の気持ちでいっぱいです。優勝に3回も立ち会わせてもらいましたし、大好きな野球選手の練習風景も間近で見られた。ありがたいことに知名度も上がって、ファンの方から声をかけていただいたり、お仕事につながったりすることもありました。

─18年間で特に印象的だった瞬間はいつでしょうか?

パトリック:最初にスワローズのスタジアムDJとしてアナウンスをした2008年の開幕戦は印象に残っています。ド緊張で選手の名前を間違えてしまって。選手にはちょっとこけるようなポーズをされました。スタートがそれだったので、最初の頃はずっと緊張していましたね(笑)。

─そんな時期があったなんて想像もできないです。

パトリック:印象的な瞬間はそれ以外にもたくさんありますが、やっぱり2015年、神宮球場で雄平選手のサヨナラヒットで優勝した瞬間は特に記憶に残っています。ビールかけに参加させてもらったのも嬉しかったですね。

最近だと2022年、村上宗隆選手がシーズン最終打席に日本人最多本塁打記録となる56号ホームランを打ったとき……あの打球の音はいまだに頭に残っていますね。打った瞬間にいままで聞いたことのないような大歓声が起こって、思い出すといまでも鳥肌が立っちゃいます。

村上選手の56号ホームラン

「専業で食べていけるようなスポーツMCをたくさん生んでいきたい」

─2017年には、スタジアムDJなどスポーツに関わるアナウンサー(スポーツMC)のアナウンス事務所「P’S STADIUM」を立ち上げられました。どのような思いがあったのでしょうか?

パトリック:立ち上げた理由としてまず大きかったのは、スタジアムDJやスポーツMCの仕事をより多くの方々に認知してもらい、地位を向上させたいという思いがあったことです。自分がキャリアを積むことでそうなればいいと思っていたのですが、やはり1人では限界を感じ、仲間と一緒にやっていくことにしました。

パトリック:そのためには、若い世代の育成も必要です。いまはプロ野球でも試合前後やイニング間にイベントや派手な演出を行うチームが増え、競技とエンターテイメントの両立がさらに進んでいくと思います。今後は自分や仲間たちの経験を伝えて若い世代を育てながら、私たちの仕事により高い価値を見出してもらい、スポーツMCの未来を明るくハッピーなものにしたいです。

─野球以外にもJリーグやBリーグなど、さまざまなスポーツが盛り上がるなかで、スポーツMCの需要も増えているんですね。

パトリック:そのとおりです。チームやクライアントにも、これまで以上にお客さんを盛り上げたい、かっこいい演出を取り入れたいというニーズがあり、それがスポーツMCやバイリンガルMCの起用につながっていると思います。

─事務所の代表として活動するなかで感じた、これまでとの違いはありますか?

パトリック:クライアントや制作、キャスティング担当の方々と会社対会社でお話しする準備段階の大変さはすごく感じていますね。

一方で、どんな思いでその企画が立ち上がり、どういう意図でキャスティングしたかなど、クライアントや制作者の背景まで理解できるようになりました。ターゲットをより明確に絞り、アナウンスをコンセプトに近づけるよう意識することで、自分の幅が広がった部分も大きいですね。

─まだまだご自身の技を磨いていらっしゃるのですね。

パトリック:そうですね。会社のみんなとやっていく部分もありつつ、僕自身としても、より細かい部分を徹底的に追求して、行けるところまで現場でアナウンスしつづけたいです。以前、同じラジオ局にいたアナウンサーで小林克也さんという方がいらっしゃって。いま80歳を超えているんですが、現役でラジオDJをされてるんですよ。カッコいいですよね。

MLBのニューヨーク・ヤンキースでアナウンスをしていたボブ・シェパードさんも95歳くらいまで活動されていて。その方はNFLのニューヨーク・ジャイアンツでもアナウンスをされていました。私も長いことバスケットと野球、2つのスポーツでMCをやってきたので、そんなレジェンドスポーツMCになれるように。「じじいだけどこの部分では負けねえぞ」という自分の武器を磨きながら、声が出なくなるまで現場に立ち続けたいです。

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