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東映で、味噌や醤油を外国に売れたらなんて。

おそらく、日本において“東映”の名前を知らない人はほとんどいないだろう。古くは『仁義なき戦い』から今日の『ワンピース』に至るまで、年代を問わずに愛されるコンテンツを生み出し続けてきた、この会社の果たしてきた役割は計り知れない。そんななかにおいて、事業推進部に所属する佐藤弘崇さんは、なんと味噌や醤油を海外でヒットさせたいという。果たしてその真意は?
  • インタビュー・テキスト:村上広大
  • 撮影:飯本 貴

Profile

佐藤 弘崇

1985年生まれ。早稲田大学文学部卒業後、東映株式会社に入社。京都撮影所に配属され、テレビドラマや映画の制作に携わる。その後、2013年に事業推進部に異動となり、現在は文化事業室主任としてイベントや展覧会の企画・制作を担当している。

田舎過ぎる地元から中学で飛び出し、親元を離れて上京。

―現在は東映に勤務し、大学時代は演劇映像コースに在学していたそうですが、昔から映画がお好きだったんですか?

佐藤:そうですね。映画を本格的に観るようになったのは中学生ぐらいです。実は僕、生まれは福島なんですが、あまりにも田舎過ぎて住み続けるのが嫌になって。中学に進学するタイミングで上京させてもらったんですよ。早々に親元を離れ、アパートで一人暮らしをすることになったので、水を得た魚のようにいろんなところを遊び回るようになりました(笑)。そこで映画にもハマり、とりあえずビデオ屋さんのオススメみたいなのを片っ端から観てましたね。『フェイス・オフ』とか『トレインスポッティング』が流行っていた頃でした。

―佐藤さんの部屋にみんなで集まって映画を観たりしていたんですか?

佐藤 弘崇

佐藤:映画好きな友達が周りにいなかったので、それはあんまりなかったですね。映画は完全に個人の趣味で。学校の友達とはバンドをやっていて、そっちでコミュニケーションを取っていました。10代にありがちなことだと思うんですけど、極力オタクっぽくなりたくなかったんです。ただでさえ「映画が好きです」って文化系感が半端ないじゃないですか。しかも僕、本も好きだったので、どんどん文化系の人っぽくなってしまうのが嫌だなって。だから、あえてマニアックな感じにはならないようにしていました。

—高校卒業後は福島に戻って1年間浪人生活をなさったそうですね。

佐藤:中学・高校の6年間は本当に遊び呆けていたので、このまま東京で浪人をしたら何年かかっても大学生になれないんじゃないかと思って(笑)。親にも申し訳ない気持ちがありましたし、実家で浪人することにしました。でも、とにかく早く東京に帰りたくて、友達を作らない、映画を観ない、CDを買わないというのを1年間実践して、ひたすら勉強の日々。だから僕、その1年間に公開された映画のことをびっくりするくらい知らないんですよ。完全に空白の1年間でした(笑)。

フリーランスかと思いきや、東映へ入社。その経緯は!?

―1年間の浪人生活の後は早稲田大学へ進学し、映画サークルに入ったそうですね。

佐藤:映画研究会というサークルに入りました。早稲田って映画サークルがたくさんあるんですが、とりあえず入学式の日に偶然発見して、「映画作れますか?」って聞いたら「作れます」っていうので「じゃあ、入ります」って、迷うこともなく(笑)。でも、1年生のときに1本監督をやっただけで、あとは撮影のスケジュールを組んだり、メイクの真似事をしたりとお手伝いばかりしていましたね。

―なぜ監督をやらなかったんですか?

佐藤:実は僕、今まで監督になりたいって思ったことは一度もなくて、どちらかというとプロデューサーになりたかったんです。それはプロデューサーという仕事が何かすら知らなかった高校生のときから漠然と思っていたんですけど、監督を一度経験したことで、改めて違うなと感じて。そういう人ってあんまりいないみたいなんですけどね。そんなこんなで映画制作の手伝いばかりしていたら、2年生のときにサークルのOBから連絡がきて、「森田芳光監督の『椿三十郎』を撮ってるんだけど、ボランティアスタッフとして参加してくれない?」って誘われて。それ以降、いくつかの商業映画でお手伝いをさせてもらう機会が続きました。有名な女優さんがいるような場も多かったんですが、カメラの前側には興味がなかったんですね(笑)。面白いと思うのはカメラの後ろ側、作る側だったんです。そういう現場を見ながら、将来はフリーで制作をやっていこうと考えるようになりました。

―制作のお仕事というのは、具体的にどんなことを?

佐藤:ロケハンから実際の現場の段取りまでと、撮影現場のあらゆる調整役です。学生時代はその大変さがわからないでやっていましたね。学生だったからこそ、プレッシャーを感じることもなく気楽にできたのかもしれません。本当に「楽しい!」って感じでしたね。でも、実際は学生でもできることしかお願いされていなかったんだと思います。僕も会社に入って制作に携わるようになり、学生のインターンにお手伝いを頼むこともあるのですが、タダで働いているのにきつかったらかわいそうだなと思って、できるかぎり楽しいと思える仕事を振るようにしていましたから。

―最初はフリーで活動しようと思っていたのが、就職に変わったのはどうしてだったんですか?

佐藤 弘崇

佐藤:制作現場にいる先輩スタッフには「フリーで制作やりたいです」って言い続けていたんですけれど、「せっかく大学に入ったんだから就職した方がいいんじゃない?」って言われて。「じゃあ、東映と東宝を受けて、両方ダメだったら面倒見てください!」って宣言したのがエントリー締切の前日のことでした(笑)。就職活動を必死に頑張っている方には本当に失礼な話なんですけど、スーツは持ってないし、履歴書の写真もどうしようという状態でしたね。でも、周りの後押しもあり、何とか提出できて、それでご縁があって東映に入ったという感じです。

―それで受かるのがすごいですね。採用までの過程で面接などもあったと思うのですが、手応えはどうでしたか?

佐藤:わかんなかったです。よくある就職のセオリーみたいなのがわからなかったので、落ちたらまあいいやっていうあまり気負いのない感じで、嘘偽りなく本当のことを話していました。だから面接で「好きな映画に東映の作品が1本もないね」とか言われて、「すいません。ご縁がなくて……。でも、『椿三十郎』で東映のスタジオには一回行きました」みたいな会話もありました(笑)。

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学生時代のボランティアとは違う、映画制作の責任の大きさ。

学生時代のボランティアとは違う、映画制作の責任の大きさ。

—東映に入社後は京都撮影所に配属されたそうですね。ずっと東京で暮らしていた分、関西に行くことに抵抗はなかったんですか?

佐藤:それはありましたよ。でも、研修期間中に関西支社と京都撮影所も見て回る機会があって、そのときに雰囲気がすごく良いなって。それで人事から「京都どう?」って聞かれたときに「良いですね」って言ったら京都撮影所へ配属されました。それで最初は見習いとして深夜ドラマの組で先輩につきながら現場での仕事のやり方を学んでいきました。

—現場での仕事には具体的にどんなものがあるのですか?

佐藤 弘崇

佐藤:まずは脚本を読んでロケ地の候補を探し出します。次にロケの交渉があって、キャストのスケジューリングなどは上司が行うのですが、すべての段取りが決まった後に弁当や配車の手配、そして雑務も行います。僕の場合、京都という縁もゆかりもない場所だったので、ロケ地探しは本当に苦労しました。でも、先輩たちに助けてもらいながら何とかこなしましたね。京都撮影所の現場スタッフって最初はやっぱりとっつきにくかったりするんですが、打ち解けてくると家族みたいに優しくしてくれるんですよ。よく飲みに連れていってもらいましたね。僕の場合、見習い期間は2〜3カ月くらい。ただ、見習いは学生の延長みたいなもので、本当の意味での仕事のやり方は独り立ちしてから学んでいきました。そのときにこの仕事大変だなって痛感するんですね。

—どんなところが違うんでしょう?

佐藤:一番大きいのは責任ですね。見習いのときは、ただ上司についていればいいので、現場でバタバタしているだけでよかったんです。でも独り立ちすると、すべての行動責任が自分にかかってきます。映画やドラマだと、関わる人の数も多いですし、出演者の皆さんのスケジュールもギリギリのところで調整したりするもの。たとえば映画『るろうに剣心』の現場では、スタッフだけでも100名を超えていました。その分、一つの小さなミスが命取りになるんです。だから、プレッシャーが半端ないんですね。現場を離れた今でも「ロケ地に入るのに必要な鍵を借り忘れて撮影ができない」という悪夢を見てうなされることがよくあります(笑)。

—実際、大事件になったこともありますか?

佐藤:一度だけ今でも忘れられないことがありますね。あるドラマの制作に関わったときの話なんですが、借りようと思っていたマンションが撮影前日になって住人の反対で撮影できなくなってしまったんです。台本って大体1ページ1分で構成されているんですけれど、24ページくらいそのマンションのシーンに割いていたので、どうしようって。社員じゃなかったら逃げていたなと思います(笑)。

—それは冷や汗ものですね。どうやって解決したんでしょう?

佐藤:結局、そのマンションはどうにもならなくて、先輩やプロデューサー、監督に相談しました。その結果、翌日の午前中に、よく借りているマンションのオーナーに連絡して「明日貸してください!」って頼み込んで。昼くらいから部屋の装飾など全部セッティングし直し、どうにかスタッフみんなのおかげで撮影をスタートさせることができました。無事に放映されたときはホッとしましたね。

「数字が出る仕事とか、高校・大学時代に一番蔑んでいたのに、いざ自分でやってみると、これはこれで楽しい(笑)。」

—その後4年ほど制作に携わった後、2013年から事業推進部に異動となったわけですが、何かきっかけはあったのですか?

佐藤:簡単に言ってしまうと、不安になったんですね。もちろん希望通りの部署に行くことができて満足だったんですけど、現場は予算を節約しながら良いものを作るっていう仕事で、目に見えるお金を稼ぐ仕事ではないわけです。その一方で、同僚は半年でこれだけ稼いだという話をしていて、そのうちに、毎日撮影所の仕事が楽しかっただけにいろいろと葛藤するようになって。それで人事には30歳くらいになったら異動も考えたいなぁなんて相談していたんですね。それが突然に決まったという(笑)。ある意味サラリーマン的な仕事であれば経理や総務もありかなと思っていたんですが、事業推進部という濃厚な営業セクションへ配属になりました。

—現在は具体的にどういった仕事をしているんですか?

佐藤 弘崇

佐藤:まだ異動して1年なので偉そうことは言えないですが、部署としてはヒーローショーや展覧会などの企画・制作・営業を仕事にしています。最近だと、『特別展 ガウディ × 井上雄彦 –シンクロする創造の源泉-』などがあります。チラシ制作などで原稿の確認などをする機会もあるのですが、校正記号も人生で初めて触れましたし。「トルツメ」ってなんだ? みたいな(笑)。まったくの畑違いなので、同じ会社の中で異動したとはいえ、転職した感じに近いですね。京都にいた頃は、ビジネスっていう言葉は照れくさくて言えなかったんですけれど、今の部署になってからは「会社ってビジネスするところなんだ」とようやく思えるようになりましたね。数字が出る仕事とか、高校・大学時代に一番蔑んでいたのに、いざ自分でやってみると、これはこれで楽しい(笑)。

—なるほど(笑)。具体的に今後やりたいビジネスはあるんですか?

佐藤:商社みたいなことをやりたいなと思っています。事業推進部って、簡単に言うと映画以外でお金を稼ぐ部署で、何を仕事にしてもいいって言われているんですよ。もちろん、「儲かるならば」の条件付きで(笑)。だから、日本そのものの良さを海外に売ってみたいと思っています。たとえば今、日本人の俳優で海外の映画に出てる人が限られているのがもったいないと思っていて。それなら日本の俳優をもっと海外に紹介したり、弊社でこれまでに制作してきた素晴らしい映画をもっと配給できる余地があるかもしれないって思うんです。あとは本当にできるかわからないけど、クールジャパンはみんなもうやってるから、大してクールじゃないジャパンも扱うみたいな、味噌とか醤油とかを海外に売ったりしたいですね(笑)。

—本当に実現するといいですね。では最後に、佐藤さんにとっての仕事とは?

佐藤:「張り」でしょうか。仕事があるからいろんなことを楽しめるというか、やらなきゃいけないことがあるから、いろんなことを楽しめる気がします。逆に仕事がなかったらって考えると、不安で生きていけないです。あと、京都のときもそうですけれど、危機的な状況になって追い込まれても、なるべく楽しめるようにしたいですね。昔、先輩に「何が起こっても命までは取られはしないから」って言われたことがあって、確かにそうだなと思って、今でも指針にしています。これからも楽しみながら仕事をしたいかな。そして将来は、ロサンゼルスでプール付きの家に住みたいと思います(笑)。

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『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ

「オススメの映画は?」と聞かれて真っ先にあげるのがこのタイトル。初めて見たのは小学生くらい。そのときは何とも思わなかったのですが、大学に入って久しぶりに観たらとても面白くて、それ以来、僕の一番好きな映画になりました。理屈抜きでここまで楽しい映画は後にも先にもないかもしれません。ちなみに今回持ってきたこの本は、古本屋で偶然見つけて思わずジャケ買いしたもの。映画で使用した小道具などが掲載されています。デロリアンが空を飛ぶようになったら僕もほしいです(笑)。
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