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芸人志望から挫折を経て、憧れのデザイナーへ

WEBクリエイター・中村勇吾氏率いる最先端のデザインスタジオ「tha ltd.」で働く西村斉輝さん。友人と手掛けた「のらもじ発見プロジェクト」がTDC賞を受賞するなど注目を集めるデザイナーだが、今日に至るまでの道のりは平坦なものではなかった。高校卒業後、ダウンタウンに憧れて吉本興業のタレント養成所「NSC」に入学するも芽が出ず、家電量販店で働く。そしてその後に、多摩美術大学に入学したという経歴の持ち主だ。「自分にはセンスがないんです」と語る西村さんが、第一線で活躍するデザイナーになるまでの道のりとは?

Profile

西村 斉輝

1984年7月21日兵庫県で生まれ、愛知県名古屋市で育つ。高校卒業後、吉本興業のタレント養成所NSC大阪校に入学。その後、2007年に多摩美術大学グラフィックデザイン学科に入学、2011年3月に同大学を卒業。2011年4月にtha ltd.に入社。2013年に友人と手掛けた「のらもじ発見プロジェクト」がTDC賞を受賞。

芸人を諦め、デザインの道に進むまで

―今はデザイナーとして活躍する西村さんですが、小さいころから目指していた仕事なのですか?

西村:実はもともと芸人になろうと思っていて、デザインというものを初めて意識したのは実家にパソコンが来た16歳くらいの時。それからインターネットにハマって、ゲームの攻略サイトを作ったりしてたんですが、次第に自分のサイトをカッコ良くしたいという欲求が芽生えてきたんです。当時、ネットで注目を集めていたカッコ良いサイトを毎日貪るように見ていたのですが、中でも衝撃を受けたのが中村勇吾さんのサイト。自分もこういうものを作りたい! と思い、プログラムの勉強を始めたものの、すぐに行き詰まり……。

―そう簡単にはいかないと(笑)。

西村:そうです(笑)。思うようにカッコ良いものが作れない葛藤の中、美大に行ったらカッコ良いものが作れるようになる、という噂を聞いて、まずは近くの美術予備校に見学に行ったんです。それで教室に入ると、自分と同じ高校生が真剣な顔でものすごくレベルの高い絵を描いている。そんな光景を見て「これは自分にはできないな」と思って諦めてしまって。そんなわけで美大への道は早々に断念し、憧れていた芸人になるべく「NSC」に進むことを決めた、というわけです。

—すごい方向転換ですね(笑)。昔からお笑いは好きだったんですか?

西村 斉輝

西村:はい。中学生の時に「ごっつええ感じ」を見ていた世代なので、ダウンタウンに憧れていました。ダウンタウンが「NSC」の一期生なので、同じく、僕も「NSC」に入ろうと思っていて。それで「NSC」の面接を受けに、コンビを組むつもりだった友達と一緒に行ったんです。でも、面接が始まる前にその友達が会場の警備員と揉めて、怒って帰ってしまって(笑)。結局、一人で面接を受けて、入学することになりました。

―入学してからはどのようなことをするんですか?

西村:はじめの1か月はオリエンテーションがあり、その後は発声やダンス、ネタ見せの授業が始まります。その時人生で初めて漫才の台本を書いたんですが、何から手を付けていいかもわからなくて、全くネタが作れず愕然として。入学当初は同期が800人くらいいたんですが、ネタ見せの授業が始まって1か月後には半分くらいになってましたね。おそらく僕と同じ境遇の人が、大勢いたんでしょう(笑)。僕も1年間通い、コンビを変えながら何度も挑戦したのですが、結局うまくいかなくて。

―憧れのダウンタウンには、そう簡単にはなれなかったと。

西村:遥か遠く及びませんでした(笑)。僕の漫才のレベルというのは、そもそも2人の人間が自然に喋ってるように演じる事もできず、面白いかどうか以前の問題。当時テレビでやっていた先輩の芸人さんのネタをノートに書き起こして、ボケとツッコミの間や、声の大きさ等を真似したりしていたんですが、それでも面白くならない。漫才の現実に直面したら、2人の人間が面白いことを喋ってるだけではないという大きな勘違いに気づき、打ちのめされましたね(笑)。「NSC」の授業では作家や脚本家の先生の前でネタをやってコメントをもらうんですが、そこで先生に認められて声が掛からなければ終わり。結局、僕は声が掛からないまま1年後に卒業することになりました。

ゼロからのリスタート。分析で合格した美大受験

―進路が断たれたまま、社会に放り出されてしまったと。卒業後はどんなことを?

西村:芸人になる夢が破れ、やりたいこともなくなってしまったので、NSC時代からバイトをしていた家電量販店で本格的に働き始めました。店頭で電化製品やゲームやCDの販売など、わりと好き勝手やらせてもらっていたので、それはそれで楽しかったです。当時、ナムコから発売された「塊魂」(かたまりだましい)という、塊を街で転がして建物などを巻き込みながら大きくしていくというゲームがあったんですが、グラフィックや音楽がカッコ良く、ものすごく気になっていたんです。会社としてはまったく推していなかったんですが、僕はそのソフトをみんなに知ってもらいたいという一心でお店を「塊魂」でジャックしたんです。メーカーから支給されたプロモーション映像を自分で編集してテレビコーナーで流したり、パソコンを駆使して店頭用のポップを自分で作ったりして。すると、うちの店舗だけ異常に「塊魂」が売れて(笑)。

―いい展開ができたんですね(笑)。

西村 斉輝

西村:そうですね(笑)。仕事はすごく楽しかったんですが、徐々に他人が作ったものを他人に売る、という仕事に満足できなくなって、自分もつくる側になりたいと思うようになったんです。それで結局一年でその家電量販店を辞め、高校の時に諦めた美術予備校に入学しました。僕は最年長なのにまったく絵を描く技術はなく、知識も全くない。だから劣等感しかありませんでしたよ。結局一度目の受験は失敗しましたが、高校生の時よりは物事を客観的に見れるようにもなっていたので、徐々に美大受験をロジックで理解できるようになりました。

―ロジックというと?

西村:僕の志望校の受験科目は学科と、実技の鉛筆デッサンと色彩構成があったんですが、はじめは実技がどうにもならなかったんです。そこで個人の好みに左右されそうな絵の評価を、大学はどうやって公平に採点しているのかを考えはじめました。つまり採点する人が考えているであろう合格の基準を探ったといいますか。それを調べるために全国の美術予備校からパンフレットを取り寄せ、掲載されている合格者の再現作品をかき集めて。もう合格者全員の作品をコンプリートするぐらいの意気込みですよ(笑)。そして合格した人の作品と、不合格だった人の作品を比べ、その違いを分析したんです。その違いに合格基準になるボーダーがあるだろうと。そういった作戦の甲斐あって、2度目の受験はすんなり合格することができました。

―それはすごい攻略法ですね(笑)。もともと物事を分析することが好きなんですか?

西村:そうですね。父親が化学の仕事をしたせいか、普段から物の成り立ちの話をすることが多く、その影響を受けてか、分析的に考える癖がついたのかもしれませんね。

―なるほど。そしていよいよ、念願の美大生活が始まったわけですね。

西村:はい。しかし当然ですが、周りは基本的なグラフィックデザインの素養はすでに持っている人ばかり。その中で秀でるためには、他の人と違うものを見つけなければいけないという想いがありました。たとえば、作曲とか映像制作とか、「プラスα」の何かです。だから大学のはじめの頃は、その「プラスα」探すことに焦っていて。そんな時に高校時代にやっていたプログラミングを思い出し、これを自分の「プラスα」にしようと決めたんです。

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thaのネットストーカーから公認ストーカーに

thaのネットストーカーから公認ストーカーに

—大学生活とプログラミングの両立に励んでいたんですね。

西村:両立とまではいきませんが、大学の課題はそこそこ適当にやって、家でプログラミングを勉強していることが多かったです(笑)。そんな中、当時流行っていたTwitterや、オンラインブックマークサービスのDeliciousで、気になる有名人やデザイナーの方の動向を熱心に観察していたんです。その中にthaの人達も含まれていて、彼らの仕事が公開されたら真っ先にツイートしたりとか、ネットストーカーのような気持ちの悪いことをずっと(笑)。僕がネットで使っているユーザー名がbouze(ボウズ)なんですが、後から聞いたら当時thaの社内では「ボウズっていう気持ち悪い奴がいる」と少し話題になっていたみたいです(笑)。

—まさにストーカーですね(笑)。

西村 斉輝

西村:そうなんです(笑)。うちの大学では年に一度、勇吾さんの講義があったんですが、僕が3年生の時にその講義の打ち上げに参加する機会があって。その席で勇吾さんに話しかけると「お前が、あのボウズか!」と言われ、知ってもらえていたことを良いことに、就職の相談をしたんです。それがきっかけになってポートフォリオを見てもらい、大学3年生の終わりからアルバイトとしてthaで働かせてもらえることになりました。それで卒業後に、そのまま就職して今に至るというわけなんです。

—実際に働いてみてどうでしたか?

西村:ずっとネットストーキングしていた会社だったので、どんな人がいて、どんなものを作っているかはある程度知っていましたが、実際に働いてみると全然勝手は違いました。デザインやプログラミングの実務も大変ですが、社会人経験がほとんどないまま入社したので、外部の方と仕事をする作法がわからず苦労はしましたね。ただ、ストーカーが家の中にあがりこんでしまっているような状態なので、本当に楽しいですよ(笑)。言うなれば公認のストーカーみたいなものですね。とても恵まれた環境で働かせてもらってると思っています。

自分の目を通して見える世界の解像度を高めていく

—最近では、NHKで放送している番組「デザインあ」の展覧会「デザインあ展」で制作を担当したと伺いました。どのようなお仕事だったのでしょうか?

西村:僕が参加したのは「モノ・オトと映像の部屋」という作品なのですが、これは番組のうたのコーナーから選ばれた4曲の映像が部屋の4面の壁に投影され、音楽の歌詞に連動して、中央のテーブルに置かれたモチーフにスポットライトがあたるという作品です。僕は「カラーマジック」という曲の映像編集と、歌詞に連動してテーブルのモチーフにライトを当てるプログラムの制作を担当しました。これまで映像の仕事はほとんどやったことがなかったので、この時の編集や撮影の経験を通して、カメラや映像の編集に興味を持つきっかけになりましたね。

—プライベートワークでも「のらもじ発見プロジェクト」はネットで話題になり、TDC賞も受賞したそうですね。

西村 斉輝

西村:はい。このプロジェクトは友人2人と一緒に立ち上げたプロジェクトです。街にあるレトロな看板文字を「のらもじ」と名付けて、看板で使われている文字からオリジナルフォントを制作し、ネットで配布するというもの。さらにフォントをダウンロードしてくれたユーザーから寄付を受け付け、店舗や看板の維持・保全に役立ててもらうというプロジェクトです。もともと、街で見かけた面白い文字を写真に撮るという行為は一部の人達がすでにやっていたのですが、そういった行為をもっと一般化できないかと友人が考えたのがきっかけで。TDC賞ももちろんですが、協力してくださったお店の方々に喜んでいただけたのが何より嬉しかったですね。

—では今後は、クリエイターとしてどんな道を歩んでいきたいですか?

西村:ものづくりは突き詰めると、選択の積み重ねのような気がしているんです。例えば配色にしても、無限にある色の中からベストな色を選択することですし、レイアウトも無限にある配置の組み合わせの中から最適な配置を選択するということです。その選択の精度がデザイナーの能力だと思っていて。うまくいかない時は選択肢が少なかったり、選択する基準が曖昧だったりする。だから僕は選択肢を増やすために、これからもいろいろ勉強しながら経験を積んでいきたいです。

—特定のセンスを磨くというよりは、多くを知りたいということでしょうか。

西村:そうですね。もちろん、センスがある人は選択肢を増やさずとも直感的に最適な選択ができると思うんですよ。でも僕にはそういったセンスがないから、一つずつ選択肢を増やしていくしかない。そのためには、いかに視点を広げるということが重要だと思っています。それは、良いものをただたくさん見るだけではなく、その成り立ちや深部まで見る目を養うといいますか。たとえば、映画もメイキングを見たあとに本編を見ると、見え方が変わると思うんですが、あの感覚に似ています。僕は物事をより深く見るために、自分でつくってみることもあります。実際に手を動かしてつくってみると、より細部が明らかになり、今まで見ていた世界の解像度がグッと上がることがある。そういった体験があるからこそ、ものをつくるという今の仕事を楽しめているのかもしれませんね。

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